(参考文献)
『東恩納寛惇全集 8』(第一書房 1980年) ※「六諭衍義伝」等収録。
『程氏本 六諭衍義』(沖縄県立図書館資料叢書 第1巻 1980年)
※程順則が中国で刊行した木版本『六諭衍義』の複写版で、解説が付されている。
『江戸の教育力』(高橋敏 著 ちくま新書2007年) ほか
(調査ノート)
・「六諭衍義」関連年表(「六諭衍義伝」「六諭衍義物語」(『東恩納寛惇全集 8 』収録)を元に作成。)
1388年:明(みん)の初代皇帝・太祖(たいそ)の訓示(くんじ)である「教民榜文(きょうみん・ぼうぶん)」が示される。(「明史芸文志」による) ※この一部が六諭(りくゆ)として独立していく。
1640年頃:明末・清初(みんまつ・しんしょ)にかけて盛んにもてはやされた。
1680年頃:范鋐(はんこう)、『六諭衍義』を作る。
1684年:程順則、中国福州で『六諭衍義』を初めて出会い、師である竺天植(じく・てんしょく)より譲り受ける。
1708年:程順則、福州琉球館にて『六諭衍義』を刊行する。(『程氏本(ていし・ぼん) 六諭衍義』)
1714年:『程氏本 六諭衍義』が薩摩藩に献上される。
1721年:島津吉貴(よしたか)、『程氏本 六諭衍義』を幕府に献上。
同年 :将軍吉宗(よしむね)、『六諭衍義』の注釈を漢学者・室鳩巣(むろ・きゅうそう)に命ずるが、俗語で書かれていて注釈不可として辞退。
同年9月:将軍吉宗、今度は漢学者・荻生徂徠(おぎゅう・そらい)に注釈を命ず。
同年9月:徂徠、注釈を作成する。
同年11月:序文を付して『官刻(かんこく) 六諭衍義』刊行。
1722年:室鳩巣『六諭衍義』の翻訳を命ぜられ翻訳版である『六諭衍義大意』を作成。
同年4月:『官刻 六諭衍義大意』(江戸版・初版) 刊行。
同年8月:『官刻 六諭衍義大意』(京都版・初版)刊行。
※この後、明治末年に到るまで、『賜板(しはん)六諭衍義大意』、『六諭衍義小意』、『六諭衍義抄(しょう)』等、名称や内容を少しづつ変更しながら、多くの出版者らにより「享保の改革」(1716-1745)・「寛政の改革」(1789-1800)・「天保の改革」(1830-1843)の時期を中心に数多くの『六諭衍義大意』が刊行された。東恩納寛惇が収集した本は86種(121冊)に及ぶ(「六諭衍義伝」序文)。
・この本の原題にある「首書画入(しゅしょ・えいり)」とは注釈と絵が入った本の意味。「首書(しゅしょ、くびがき)」は頭書(とうしょ、かしらがき)と同じく頭注のことで、本文上部に配する注釈のこと。)
・東恩納寛惇が「琉球海外交易史」や「琉球地誌」等と並んでライフワークとして取り組んだのが『六諭衍義』関係の研究。
・この研究が成立した背景として、一つには郷里である沖縄の偉人である程順則を顕彰(けんしょう)する目的があり、もう一つには当時の国家主義・伝統主義が大きく影響していると考えられる。(一連の『六諭衍義』関係の最大の論文「六諭衍義伝」の刊行が昭和18年(1943)。これは太平洋戦争開戦の翌々年に当たる。)
・「六諭衍義伝」(昭和18年=1943)の寛惇自身の序文(昭和17年)にも、「西洋流の教育が自立の精神を養う事に重点を置き過ぎた結果」として伝統的な相互扶助の精神が失われた。『六諭衍義』はこうした東洋伝統の相互扶助の精神を説く書であり、ここに出版することとした、という趣旨が記されている。(※但し、この当時は出版・言論統制が厳しくなる時期であり、時事問題を引き合いにする寛惇の記述は、やや差し引いて考える必要がある。この時期に出版された本の序文の多くには、伝統的な東洋や日本を礼賛する一言がみられる。)
・『六諭衍義大意』は、伝統的な道徳観を記したものだが、実際の出版状況などからみても、幕府による風紀取り締まり(ふうき・とりしまり=政治・経済・社会・文化活動の統制・監視)にふさわしい道徳書として利用・活用されたという面を持っていた。
江戸の三大改革とされる「享保(きょうほう)の改革」「寛政(かんせい)の改革」「天保(てんぽう)の改革」の頃に「大意」が多く出版されたという東恩納寛惇の研究結果がそれを物語っている。
・ところで、政治改革期(風紀取り締まり期)と文化的隆盛期は相反するところがある。
江戸時代において文化史的に評価されるのは「寛永(かんえい)文化」(1624-1645を中心とする江戸時代初期のいわゆる文芸復興期とされる文化。探幽(たんゆう)や宗達(そうたつ)が画家として活躍。小堀遠州(こぼり・えんしゅう)、光悦(こうえつ)らが茶の湯文化や出版・書に活躍)、「元禄(げんろく)文化」(1688-1707を中心とする江戸時代中期の文化。近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)が人形浄瑠璃・歌舞伎作者として、竹本義太夫は義太夫節作者として、光琳(こうりん)は画家として、仁清(にんせい)は京焼に、芭蕉は俳句に活躍)、「化政(かせい)文化」(1804-1829を中心とした江戸後期の文化。これまでの京都・大阪中心だった文化と異なり江戸中心の文化で、北斎(ほくさい)・広重(ひろしげ)らの浮世絵、蕪村(ぶそん)・一茶(いっさ)らの俳句、『椿説弓張月(ちんせつ・ゆみはりづき)』の曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)らの文学が知られる)という三つの時期。
江戸時代初期の「寛永文化」についてはまだ幕府の政治体制が整っていない時期だったので、これに対応する改革(=取り締まり)は特に行われていないが、「元禄文化」の文化的熱狂に対しては「享保の改革」が、「化政文化」に対しては「天保の改革」が行われ言論統制などが厳しく行われた。また、その間に当たる「寛政の改革」の直前には「天明文化」と呼ばれるやはり文化史的に注目される時代(江戸時代を代表する出版者である蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)やそこで活躍した浮世絵師・歌麿(うたまろ)や、作家・山東京伝(さんとう・きょうでん)らが活躍。)があるが、重三郎や京伝は寛政期の風紀取り締まりで処罰を受けている。
このように『六諭衍義大意』が幕府の指導の下、多数出版され、寺子屋などの私塾で使用される時期というのは、文化的隆盛期に乱れた風紀を取り締まり、道徳教育を教化するという面を持っていた。その意味で文化的隆盛期と政治改革についての歴史的評価は大きく分かれる。当然、『六諭衍義大意』の歴史的評価も大きく分かれる。
・上記の件に関連する記述が「六諭衍義伝」序文(昭和17年)で寛惇自身によって、なされている。
(以下、意訳)「・・・また考えてみると、享保・寛政・天保の政治、特にその堅実な庶民教育は、元禄・化政時代の乱れた社会を改革するものであって、その際に採用されたのが、この『六諭衍義』であった。・・・」
(鶴田大)