宜湾朝保集 (ぎわんちょうほしゅう)

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概要・解説文

『宜湾朝保(ぎわん・ちょうほ)集』解説

 朝保(1823-1876)は琉球王国を代表する政治家・文人です。朝保は琉球王国の政治家一般のたしなみとして中国・日本(大和文化圏)の両方の文化・歴史に精通していましたが、とりわけ和歌(大和文化圏の公式文学。五・七・五・七・七で詠む、明治以降の短歌の原型)には熱心でした。『宜湾朝保集』は朝保の自筆稿本(じひつ・こうほん=草稿・そうこう)で、没後の1890年に刊行された『松風集(しょうふうしゅう)』(→資料ID1001668886)の元となった貴重な本です。書かれた時期は、後述するように1872年作の和歌が掲載されていることからそれ以降とみられています。

 この本の冒頭部分には、朝保と親しかった薩摩藩の歌人・八田知紀(はった・とものり)自筆の序文がありますが、これは朝保編集の『沖縄集』(1870年刊)のもので、この『宜湾朝保集』とは直接関係ありません。二つの資料を別々に入手した歴史家・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)が、関連資料として合本(がっぽん)したといういきさつが、冒頭ページ見開きの余白に寛惇自身により記されています。

 朝保らは、琉球王国に対して支配的な立場にあった薩摩藩の文人らと盛んに歌会(うたかい)を開催し親交を深めました。そして琉球王国時代を通して最も和歌が盛んな時代を出現させたのです。
 明治維新を祝う明治天皇を中心とした祝賀会(1872年)でも知紀が進行役を勤めた歌会で和歌を披露して活躍しました。
 そこには純粋に和歌を好んだ朝保の姿と共に、明治政府の中心となっていく薩摩藩の人々と親交を深めようとする政治家としての朝保の姿も見え隠れします。

 朝保自筆『宜湾朝保集』は二つの点で特に貴重です。一つは琉球唯一の刊行された個人和歌集『松風集』の元となった本であること、もう一つは自筆本(=作者自身の筆による本)だということです。

 一点めについては、この本が内容的に『松風集』と異なる点を持っていて互いに比較することでそれぞれの特色がより明らかになるという面があります。
 例えば、先ほどふれた明治維新を祝う歌会(1872年)に出席した朝保は和歌を二首、詠みました。二首のうち、『松風集』に入っている歌はこの本には無く、もう一つの歌は末尾から四首め(64ページ)に記載されています。
 記載されていない歌は「紅葉如酔(もみじ・ようがごとし)」(→資料ID1001998291 参照)という即興の題で詠まれたもので、
「汲(く)みかわす まどいの外のもみぢまで 酔いの盛りと見ゆる今日かな」
(意訳:新しい時代に祝杯を上げる私たちの集まりの窓の外でも、紅葉までいつにも増して祝いに酔ったように赤みを増していることだ)という歌です。
 記載されている歌は「水石契久(すいせき・ひさしきをちぎる)」という、歌会の前にあらかじめ知らされていた題で詠まれた、
「動きなき 御世(みよ)を心の岩がねに かけてたえせぬ滝の白糸」
(意訳:とどまることない時間の流れの中で私たちは、まるで時間が止まったかのように平穏に日々を送っている。それというのもこのめでたく、ゆるぎない時代のおかげだ。それは、ゆるぎない岩根(いわね=大岩)があるからこそ永遠に絶えることのない、この滝の流れのようなものだ。)という歌です。
 『松風集』を編集したのは朝保の後輩の歌友(かゆう)、護得久朝置(ごえく・ちょうち)ですが、おそらく『松風集』とこの朝保自筆稿本『宜湾朝保集』の間には、朝保自身がさらに推敲(すいこう)を重ねた自筆歌集があったとみられています。先述の通り、『松風集』と『宜湾朝保集』の間には内容的にかなりの違いがあるからです。

 二点めについては、東アジアでは伝統的に「書」は書いた人そのものでありまた、視覚表現として「美術」の中心でした。特にこの本は草稿本ですから、よそ行きの書ではなく普段のメモ書きです。普段の朝保の声が聞こえるという意味でも特に貴重な「美術」だと言えるでしょう。

(鶴田大)

詳細解説文

『宜湾朝保(ぎわん・ちょうほ)集』 解説(詳細版)


 朝保(1823-1876)は琉球王国を代表する政治家・文人です。琉球王国が日本の一部となる政治史の流れに居た中心人物として晩年、非難を浴びることとなった、ある意味では不遇な政治家です。
 朝保は琉球王国の政治家一般のたしなみとして中国・日本(大和文化圏)の両方の文化・歴史に精通していましたが、とりわけ和歌(大和文化圏の公式文学。五・七・五・七・七で詠む、明治以降の短歌の原型)には熱心でした。『宜湾朝保集』は朝保の自筆稿本(じひつ・こうほん=草稿・そうこう)で、没後の1890年に刊行された『松風集(しょうふうしゅう)』(→資料ID1001668886)の元となった貴重な本です。書かれた時期は、後述するように1872年作の和歌が掲載されていることからそれ以降とみられています。

 この本の冒頭部分には、朝保と親しかった薩摩藩の歌人・八田知紀(はった・とものり)自筆の序文がありますが、これは朝保編集の『沖縄集』(1870年刊)のもので、この『宜湾朝保集』とは直接関係ありません。二つの資料を別々に入手した歴史家・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)が、関連資料として合本(がっぽん)したといういきさつが、冒頭ページ見開きの余白に寛惇自身により記されています。

 朝保らは、琉球王国に対して支配的な立場にあった薩摩藩の文人らと盛んに歌会(うたかい=和歌を詠み合う会)を開催し親交を深めました。そして琉球王国時代を通して最も和歌が盛んな時代を出現させたのです。
 朝保は琉球王国最大の歌人とされ、明治三年(1870)には『沖縄集』(琉球王国時代の三十六人の歌人の和歌を一首づつ集めて刊行した和歌集)を刊行しています。序文は当時の和歌文学の中心的存在である薩摩藩の八田知紀(はった・とものり)が書いています。
 明治維新を祝う明治天皇を中心とした祝賀会(1872年)でも知紀が判者(はんじゃ=歌会の進行役・審査役)を勤めた歌会で和歌を披露して活躍しました。
 そこには純粋に和歌を好んだ朝保の姿と共に、明治政府の中心となっていく薩摩藩の人々と親交を深めようとする政治家としての朝保の意思も見え隠れします。文学・芸術は古来、強い政治性を持ってきたのです。

 朝保が最晩年に刊行したのが『沖縄集 二編』(1876年刊。『沖縄集』の続編というべき歌集で当時現存していた琉球の歌人と、琉球にゆかりのある薩摩の歌人らの和歌、全1439首を集めた歌集)、朝保没後に刊行されたのが先ほどふれた朝保の個人歌集である『松風集(しょうふうしゅう)』です。そして琉球王国に生きた人々の和歌集として刊行されたのは、実にこの三冊が全てなのです。個人歌集としてはこの『松風集』が唯一です。
(漢詩についてみると、琉球王国時代を通して『中山詩文集(ちゅうざんしぶんしゅう)』など数多くの漢詩集が刊行されています。そこには様々な歴史的な要因が横たわっているようです。)

 朝保自筆『宜湾朝保集』は二つの点で特に貴重です。一つは琉球王国人として唯一の刊行された個人和歌集である『松風集』の元となった本であること、もう一つは自筆本(=作者自身の書いた本)だということです。
 一点めについては、内容的に『松風集』の元となったとみられる本は、この本以外にも、『琉球 朝保集』(東京大学史料編さん所 島津家文書)、『宜野湾朝保歌集(ぎのわん・ちょうほ・かしゅう)』(ハワイ大学ホーレー文庫)が知られます。それぞれ独自の内容を持ち比較することでよりそれぞれの特色が見えてきます。
 例えば先ほどふれたように明治維新を祝う歌会(1872年)に出席した際に朝保は和歌を二首、詠みました。二首のうち『松風集』に入っている歌はこの本には見られず、もう一首は末尾から四首め(64ページ)に記載されています。
 記載されていない歌は「紅葉如酔(もみじ・ようがごとし)」という即興の題で詠まれたもので、
「汲(く)みかわす まどいの外のもみぢまで 酔いの盛りと見ゆる今日かな」
(意訳:新しい時代に祝杯を上げる私たちの集まりの窓の外でも、紅葉までいつにも増して祝いに酔ったように赤みを増していることだ)という歌です。(※この歌は有名で、県立図書館にも、絵を添えられ朝保自身が大書した掛け軸があります。→資料ID1001998291)
 記載されている歌は「水石契久(すいせき・ひさしきをちぎる)」というあらかじめ歌会前に知らされていた題で、
「動きなき 御世(みよ)を心の岩がねに かけてたえせぬ滝の白糸」
(意訳:水が流れるように時間もまた流れ続けるが、このめでたく、ゆるぎない時代を頼りにしているのだろう、この滝の流れは絶えることなくこの岩根(いわがね)の上をまるで時が止まったかのように変わらずに流れ続けている)という歌です。
 『松風集』を編集したのは朝保の後輩の歌友、護得久朝置(ごえく・ちょうち)ですが、おそらく『松風集』とこの朝保自筆稿本『宜湾朝保集』の間には、朝保自身がさらに推敲(すいこう)を重ねた『宜湾朝保集』があったものとみられています。(島津家文書の写本『琉球 朝保集』もその一つです。)
 二点めについては、東アジアでは伝統的に「書」は書いた人そのものでありまた、視覚表現として「美術」の中心でした。ですからこの自筆本は朝保の和歌を詠(えい)ずる肉声が聞こえる「美術品」という面を持っています。特にこの本は草稿本ですから、よそ行きの書ではなく普段のメモ書きです。普段の朝保の声が聞こえるという意味でも特に貴重なものだと言えるでしょう。

 ところで和歌は元々が大和文化圏の文学、漢詩は中国の文学です。こうしたものが上記のものに加えて、短冊・掛け軸などの形で数多く現存するのに比べ、琉球特有の文学である琉歌はまとまった本としては『琉歌百控(りゅうか・ひゃっこう)』(1795-1802)と歌舞(かぶ)のための楽譜『屋嘉比工工四(やかび・くんくんしー)』がわずかに現存するのみです。少し意外な感じもしますが、これは和歌・漢詩が「詠み、書く」文芸であるのに対し、琉歌は「詠み、踊る」文芸であるためです。琉歌は書くよりも人の口から口へと伝えられる性格を持っているのでしょう。

(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス 1988年刊) ※項目「宜湾朝保」「維新慶賀使」など
『近世沖縄和歌集』(池宮正治ほか編 ひるぎ社  1989年刊)
※刊行された宜湾朝保の個人和歌集である『松風集』を活字化して収録。またこの『宜湾朝保集』についての詳しい解説あり。
ほか

 

(調査ノート)
○本文冒頭ページ見開きの余白にある旧蔵者の歴史家・東恩納寛惇の朱筆書き込み内容は下記の通り。
「朝保大人自筆の詠草一巻、その家に伝えてありしを、故ありて請受けたり。序書は八田大人自筆、沖縄集の序文にて、もと、此の稿本と係る所なし。上運天の■書類にして、秘蔵せしを請受けて、ここに取り合はせたるもの也。 寛」
(※一部、便宜のため改字しました。「上運天の■書類」部分は判読検討中。)

(鶴田大)
しばらくお待ちください