処蕃趣旨書 (しょばんしゅいしょ)

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概要・解説文

 『処蕃趣旨書』は1874年の明治日本による台湾出兵をめぐる一連の出来事を時系列に沿って記述した報告書です。報告書を書いた野口常共は、明治政府が台湾出兵に際して設置した蕃地事務局の事務官です。「処蕃趣旨書」とは蕃族を処分(≒征伐)した出来事についての報告書、という意味です。蕃族とは当時の台湾の先住民族の呼称でした。
 台湾出兵については複雑ないきさつがありますが、おおまかに云うと、1871年に台湾に漂着した宮古島民54名が台湾の先住民らに殺害されたこと(台湾漂着琉球人遭難事件)に対し、明治政府が「日本国民」の被害に対して報復するとともに、日本の安全を脅かす勢力を取り除くという名目で台湾に出兵した、という事件です。この事件が歴史的に重要なのは、結果として締結された清朝(しんちょう)中国との国際条約によって、琉球・沖縄がやがて明治日本の一県となることが決定的になったという点です。(台湾漂着琉球人遭難事件は1871(明治4)年の出来事で、当時、琉球・沖縄はまだ琉球王国だった。琉球・沖縄が台湾事件をきっかけに明治日本の一部となった経過については「調査ノート」参照。)

 この文書は上述のような琉球・沖縄がこの事件をきっかけに明治日本の一部となっ
ていく、ということに関して記しているわけではありませんが、明治政府の内部文書であることは末尾のほうに記されています。またこの文書が蕃地事務局長の大隈重信(おおくま・しげのぶ 後の総理大臣。早稲田大学の創立者。)の指令で作成されたものだということも記されています。

(鶴田 大)

詳細解説文

 公同会運動が繰り広げられた時代(中心は1895~1897年)は、琉球王国が沖縄県として明治日本の一部となった時期(1879)から20年近く経っていました。当時は日清戦争が日本の勝利に終わり、清朝(しんちょう)中国を頼りに琉球王国の復活運動をしていた頑固党(がんことう)の人々が望みを断たれ、急速に多くの県民が明治日本の一県であることを受け入れるようになっていました。こうした時期に起こった「旧・琉球王家が代々、県令(≒県知事)を受け継ぐ」ことによって琉球・沖縄の自治を少しでも回復しようとする旧支配層らを中心とした公同会の運動は頑固党(がんことう≒親清派(しんしんは))、開化党(かいかとう≒親日派(しんにちは))を含め全県的な広がりをみせました。しかし、この請願に対し、明治政府は全く取り合わなかったばかりか、「運動を続けたら取り締まる」と脅します。さらに新聞や沖縄県出身の東京在住者らからも「時代錯誤」と批判されて、結局、運動は挫折します。

 公同会運動は「旧支配層の最後のもがき」とされ、その実現可能性は全く無かったと一般に見られています。こうした運動がなぜ行われたか。これについて興味深い見方出されています。公同会運動の本当の目的は、旧王家が県知事の地位を代々受け継ぐという表向きの目標を設定することで、激動の時代の中で主義主張をめぐって深刻な対立を続けていた「王国時代の旧支配層を一つにまとめ、沖縄県政を大和人(ヤマトンチュ)の手から奪い返して、沖縄人(ウチナ-ンチュ)の主体性を確立する」というのが真の目的であったのではないか、という見方です。(新城俊昭『教養講座 琉球沖縄史』2014年刊。 参考文献欄参照。)こうした見方は、公民権運動の中心メンバーに、その後、沖縄最初の新聞『琉球新報』を創刊した太田朝敷(おおた・ちょうふ)らが加わっていたことや、現在まで続く沖縄県民の団結意識などを考え合わせると納得的なものがあります。

参考文献・調査ノート

(参考文献)
・『沖縄大百科事典』
※「宮古島民遭難事件」「台湾事件」各項目参照。
・『国史大辞典』(吉川弘文館 1997年刊 ※有料登録サイト「ジャパンナレッジ」で検索可能。)
※「西郷従道」「台湾出兵」各項目参照。
・『教養講座 琉球・沖縄史』(新城俊昭 編著 編集工房東洋企画 2014年刊)
※p.208-209 「琉球船の台湾遭難事件」の項で事件の経緯と琉球・沖縄がこの事件をきっかけに明治日本の一部となっていく過程がまとめられている。
・『明治文化全集 第七巻(外交篇)』(復刻版  明治文化研究会 編 日本評論社 1992年刊)
※全文が掲載されている。

(調査ノート)
・同じ本が国立国会図書館、東京大学史料編纂所図書室、東京大学総合図書館、名古屋大学図書館などに所蔵されている。
・「台湾事件」をきっかけに琉球・沖縄が沖縄県として明治日本の一部となっていく過程のあらましは下記の通り。
-1868年 明治政府成立。
-1871年 那覇へ年貢を運んだ帰路の宮古島の船が遭難して台湾に漂着した。船に乗っていた66人のうち54名が台湾の地元住民「蕃族」に殺害された。
―1872年  琉球王国や台湾を「日本」の一部にしようと考えていた明治政府は、台湾の事件が琉球、台湾を領有する好機と捉えた。そこで琉球王国の使者に対して琉球王国が或る程度の自治権を持つ「琉球藩」となって明治日本の一部となることを要求した。(すでに明治政府は1871年に廃藩置県を行い、日本本土に府県を設置していたので、自治権のつよい「藩」は特例であった。)数百年にわたり、清朝中国と薩摩藩のつよい影響力に苦しんでいた琉球王国の使者らは、この要求が避けがたいことを認識し、また、藩となることは薩摩藩(当時はすでに鹿児島県になっていた。)の影響力から逃れられる機会であり、清朝中国との外交関係は従来通りと認識したため、琉球藩となることを受け入れた。このことは数百年にわたって琉球王国が「臣下」の立場を取ってきた清朝中国の承認を得ないで行われた。
-1893年 明治政府は「琉球藩設置」については秘密にしたまま、清朝中国と友好条約(日清修好条規)を結んだ。さらに清朝政府高官に「台湾事件」についての清朝中国の立場を問いただし「台湾は清朝中国の政治支配が及ばない地であり、蕃族による琉球人殺害事件について責任がない」という発言を得た。当時の国際社会においては「近代的」国家に属していない地は先に支配を確立し宣言した国家がその地の領有権を有するというルール(無主地先占論 むしゅちせんせんろん)があった。このルールに基づいて明治政府は「日本国民」である「琉球藩」の人々殺害への報復と日本国の安全を図るという名目で台湾へ出兵する準備を進めた。こうした動きに対し欧米諸国が強い批判をしたため、台湾出兵はいったん中止した。
-1894年 明治政府において陸軍中将、台湾蕃地事務都督(たいわん・ばんち・じむ・ととく 都督は軍司令官のこと。)に任命されていた西郷従道(さいごう・つぐみち 西郷隆盛の弟)は独断で台湾へ出兵。これに対し清朝中国は友好条約違反であり、国際社会の批判に反する行為であるとして激しく抗議を行ったが、日本政府は前年の清朝政府の「台湾は清朝中国の政治支配が及ばない地」だとする発言や国際ルール「無主地先占論」を持ち出して出兵の正当性を主張した。(実際には、西郷従道の台湾出兵は明治政府の内密の了解を得て行われていた。)
 結局、この日清間の対立は、イギリスが仲介に立って、日清両国間互換(ごかん)条約などが締結され一応の決着をみた。この条約により「清朝中国の領地である台湾の蕃族が「日本国民(条約では「日本国属民等」とされた。)」に対して被害を及ぼした」ということが国際的に承認された。実はここで日本政府はトリックを使っていた。前年の1873年に小田県(現在の岡山・広島両県の一部)の人々が台湾で現地人により所持品を奪われるという事件が起こっていて、日本政府はこれを台湾出兵の理由の一つに挙げていた。そのため清朝政府は条約にある「日本国属民等」を小田県人と考えていたが、日本側は「日本国属民等」という言葉を琉球人、小田県人の両方という意味で条約の文章に入り込ませたのである。この条約により明治日本は台湾を領有する機会をのがしたが、琉球・沖縄を完全に日本の一部として領有する布石を打つこととなった。
-1875年~ 明治政府は琉球藩に対し、台湾出兵が琉球・沖縄のためであったことを強調し、琉球藩が沖縄県となって明治日本の制度に完全に従うことを迫った。琉球藩王府は琉球王国が琉球藩となることを受け入れた際に認められた自治権に対する約束違反として激しく抵抗したが明治政府は首里城に乗り込み琉球藩の解体、沖縄県の設置を強行した。
こうした明治政府の強硬策は琉球藩内や清朝中国の根強い批判を受けたが、反対運動の度重なる明治政府による弾圧は続き、やがて1894年~1895年の日清戦争において日本が勝利すると琉球・沖縄が明治日本に領有されたことは既成事実となった。

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