中城御殿御石持夫賦屋敷帳 渡地村 (なかぐすくうどんごこくじふはかりやしきちょう わたんじむら)

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概要・解説文

 本資料は1869(明治3)年、中城御殿(なかぐすく・ウドゥン)の移転・造営の際、賦役(ふえき=庶民らに課せられた労働。課税の一形態)に従事した人達の出勤簿です。中城御殿は世子(せいし=次の王様)の屋敷です。尚泰王(しょう・たい・おう 在位1848~1879)の子、尚典(しょう・てん)がこの年、世子に決まったのを機に中城御殿は移転・造営されることになりました。移転の詳しい理由ははっきりしません。中城御殿は、もとは綾門大道(アイジョーウフミチ)の北側(現在の首里高校敷地内)にありましたが、この時に龍潭(りゅうたん=首里城の北西にある池)の北側に移転しました。
  この移転・造営の際に、石材や木材の運搬に従事したのが、首里三平等〔しゅり・みひら=真和志(まわし)、南風(はえ)、西(にし、または、いり)の三地区〕、那覇四町〔なは・ゆまち=西、東、泉崎、若狭の四地区〕、渡地村(わたんじむら)、久米村(くにんだ)などの人々です。この出勤簿は那覇四町などの人々のものとみられています。
  表紙を開くと「八月中 当間親雲上印かん」などと内容に関するメモが記され、次のページからが出勤簿です。紙面の下部に「久米村仲地小之屋敷」などと各戸の名称(屋号)が記され、その下に漢数字で「八」などと出勤した日数が記入されています。紙面の上部には「九月十九日」などの日付があり、日付ごとに印鑑が押してあり、紙面下部の出勤日数と一致しているようです。冊子の中間には出勤状況などに関するメモがあり、また出勤簿が続きます。末尾は欠損しているようです。
  1869年に始まった造営工事は1873年に完成しました。新築された中城御殿には世子・尚典がさっそく移り住んだようですが、時代はすでに琉球王国の終焉期に入っていました。1872~1879年にわたる、いわゆる「琉球処分(りゅうきゅうしょぶん=琉球併合)」によって琉球王国は琉球藩を経て明治日本の一部である沖縄県となるのです。1879年3月の首里城明け渡しによって国王の尚泰はこの中城御殿へ移り住み、5月には明治政府の上京命令に従って東京へ向かいます。
  その後、中城御殿は沖縄戦(1945年)によって石塀(いしべい)を残して倒壊しました。戦後の1966(昭和41)年、御殿跡地に県立博物館が建設され、2007(平成19)年に博物館が那覇市おもろまちへ移転するまで県民に親しまれました。現在、中城御殿跡地には石塀が昔の名残りをとどめています。 
(鶴田 大)

詳細解説文

 本資料は「百姓中石持人面立帳(ひゃくしょうちゅう・こくじにん・つらだてちょう)」(沖縄県立図書館蔵)と共に、歴史家・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん 1882~1963)が所蔵していたものです。寛惇の未発表の小論「渡地文書(わたんじ・もんじょ)の解明」(「全集4」に収録)によれば、昭和14年に城間恒淳氏からもたらされた文書で、渡地村(わたんじむら 現在の那覇市東町の一部)の渡地荒神堂(わたんじ・こうじんどう)に保管されていたとのことです。これら二つの文書を寛惇は「渡地文書」と名付け、「明治三年中城邸営建の際、那覇四町勤労奉仕の渡地担当の分の星取り簿である。」としています。本資料と「百姓中石持人面立帳」は同時期のものですが、本資料が各戸〔屋敷〕を基準にした出勤簿であるのに対し、「「百姓中石持人面立帳」は人名〔戸主〕を基準に作成した出勤簿であるという違いがあります。二つの資料の内容、特に本資料をみると、東村の属村である渡地村や、四町外の久米村を含む、那覇四町ほか一帯に関する文書という印象です。表紙に「渡地村」と記され、また渡地村に保管されてきた経緯から「渡地文書」と名付けたようですが、「渡地担当の分」という意味は詳細不明です。屋号や賦役の仕組みから「渡地担当」と判断されたのでしょうか。本資料をみる限り、各戸の屋号に「久米村仲地小之屋敷」「泉崎村国吉小島袋筑登之屋敷」など那覇の各村の名称が頻出しており、やはり渡地村のみならず那覇四町ほか一帯の各村の賦役にあたった各戸の出勤簿とみられます。
 中城御殿造営に関する関連史料としては他に渡地村の人々の賦役に関する文書として「同治十年 中城御殿御普請ニ付百姓中面立帳」と「同治十二年 中城御殿御普請二付御石御材木持夫出帳」(どちらも沖縄県公文書館 岸正秋文庫)があります。またこれらを含む渡地村の関連文書を複写してまとめた「渡地関係文庫」が那覇市歴史博物館にあります。
(鶴田 大)

参考文献・調査ノート

(参考文献など)
・『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)
 ※「中城御殿(なかぐすく・ウドゥン)」「球陽(きゅうよう)」ほか各項目参照。
・東恩納寛惇「渡地文書の解明」(『東恩納寛惇全集4』所収 第一書房 1979年刊)
 ※本資料の活字化が行われている。また活字化は未発表の草稿であり、寛惇自身の注記にある通り、一部省
略があり、また若干の誤脱とみられる箇所も散見されるので注意を要する。
・『球陽』(桑江克英・訳注 三一書房 1971年刊)
 ※「尚泰王二十一年」の部分に中城御殿移築に関する記事あり。『球陽』は他に角川書店から原文編・読み下し編が刊行されている。 
・『沖縄県の地名』(平凡社 2002年刊)
 ※p.124の項目「中城御殿跡(なかぐすくうどぅんあと)」に本資料と中城御殿移築に関する記述あり。その他「渡地村」など関連項目あり。

(調査ノート)
・簡素な紙縒(こより)綴じであるが、綴じた部分が出勤簿と同一とみられる印章で封緘(ふうかん)してあり、出勤簿として厳重に管理されていたことがうかがわれる。一方、一緒に保管されていたもう一つの資料「百姓中石持人面立帳」には封緘がみられない。「百姓中石持人面立帳」の本文第1ページが欠落していること〔※当該資料の解説参照。〕を考え合わせると、表紙が後補であり、綴じ直している可能性が高い。
(鶴田 大)
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