鳥島移住報告書 (とりしまいじゅうほうこくしょ)

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概要・解説文

 鳥島は正式には硫黄鳥島(いおうとりしま)と言い、徳之島の西方約60㎞にあります。本資料は1903(明治36)年4月に突然、火山が大噴火したため、硫黄採掘を生業(なりわい)としていた住民らが緊急避難し、最終的に久米島(※沖縄本島那覇から西方へ約100㎞)へ移住した様子を詳しく記録した報告書です。報告者は当時の行政責任者であった島尻郡長の齊藤用之助(さいとう・ようのすけ 1859~1933)です。報告書では大噴火に始まる避難開始や様々な話し合い、移住先などについての行政機関との交渉、避難の実態を詳しく記述し、さらに島民が移住先の久米島でどのように集落を形成したかまで、詳しく記述しています。

 硫黄鳥島は14世紀頃から琉球王国唯一の活火山があり、硫黄の産地として知られていました。このため、硫黄採掘のために当時から琉球の人々が住んでいました。1609(慶長14)年の薩摩侵攻の折には与論島以北は薩摩藩領となりましたが、硫黄採掘の関係から硫黄鳥島は琉球王国の北方の飛び地として確保され、その後、現在も無人島ながら沖縄県に属するという特異な歴史を持っています。
 大噴火による移住となった1903年以前にも硫黄鳥島では1631(寛永8)年、1829(文政12)年など度々の大噴火を起こしています。それでも琉球王国の交易品、貢納品として重要であった硫黄を採掘すべく、住民による居住は続けられました。その当時の住民たちによる肉声は伝わっていないようですが、琉球王国と薩摩藩の政治・経済的な思惑の為の危険と隣り合わせの生活には様々な思いがあったことと想像されます。
 1903年の大噴火の際に島民は久米島へ移住しましたが、硫黄採掘員93名がその後も硫黄採掘に従事しました。これは大日本帝国の富国強兵政策の一環と考えられます。そのことは齊藤用之助がのちに著した「鳥島移住始末(とりしま いじゅう しまつ」〔1910年刊 ※(参考文献など)参照〕からもうかがえます。
 齊藤は硫黄鳥島と移住先の久米島に自ら執筆した同文の「鳥島移住之紀念碑」を建立しましたが、その文章には硫黄鳥島については「旧住民たちにとって故郷であるが、永遠に住んではならない」という意味を、久米島については「移住したからにはここが住民たちにとって永遠の土地である」という意味を込めています〔※碑文は本資料のp.124~125に掲載されています〕。
 その後、硫黄採掘は戦後まで継続されましたが、1959(昭和34)年に大噴火が起こり、その際に採掘員75名は全員、那覇へ移住し、2016(平成28)年現在は無人島となっています。
(鶴田 大)

詳細解説文

○本資料には、表紙見開きに東恩納寛惇による書き入れがある。「明治四十一年 島尻郡書記 河野■(瞳?)氏寄贈 東恩納寛惇 (花押)」とあり、寛惇入手の経緯が示されている。
○付属資料として下記のものがある。
 〔※冊子本の後半部分に記載〕→
・「地割地調査点数簿」
・「地割地等級別各戸配当簿」
・「地割地各戸配当総高通信簿」
・「地割地抽選番号簿」
・「臨時種痘調査表」
・「郡訓令写」(「鳥島移住紀念碑の銘」「島尻郡諭告第一号」「島尻郡諭告第二号」)
 〔※冊子本とは別資料として保管〕→
・「鳥島人民移住宅地実測図」・・・縮尺1200分の1で、移住先の久米島での住宅地図が描かれている。各住宅区画に番号が付されている。凡例には、風呂屋・井戸・共同販売店・復習所・七嶽神社・共同祭祀所・紀念碑・巡査駐在所・弁慶石・海ノ神があり、それぞれ地図に書き込まれている。七嶽や弁慶石、海ノ神などは硫黄鳥島にあったものであり、硫黄鳥島住民が島に愛着を持ち、習俗や年中行事に欠かせないそれらの文化財をそのまま移住先にも設けたことが知られる。食料などを島外に頼っていた、硫黄採取を産業としていた特殊な入植地とはいえ、住人たちが平凡な日常生活を行い、また御嶽(うたき)を設けて伝統的な祭祀などの年中行事を行っていた様子がうかがわれる。
・「鳥島移住民家屋平面図」・・・久米島に建設された移住民のための家屋の平面図。質実な家屋が広さに応じて四種類が用意されていたことがわかる。家族の人数や役職などに応じて振り分けられていたと考えられる。
・「鳥島移住紀念之碑」・・・当時の沖縄県知事の奈良原繁が篆字で題名を書き、碑文の内容を島尻郡長であった斎藤用之助が考案し、石に彫り込む書を揮毫(きごう)したことが記されている。石碑の形状を主に記録しており、文章については省略してある。石碑の文章については本資料の本文(p.124~125)のほうに掲載されている。裏面には「鳥島移住事件当局者」として齊藤用之助以下、鳥島の長や書記以下の氏名が列挙してある。石碑は「明治37年2月」の年記で、実際に硫黄鳥島と移住先の久米島に建立されている。いずれも摩耗がはげしいという。
・「久米島 約六万分ノ一 見取図」・・・鳥島住民が移住した先の久米島の様子が図化されている。凡例によれば、鳥島人民移住地・鳥島人民耕作地所在地・間切役場・村落が記されている。港の西北部に移住地域と開墾地が広がっている。
・「鳥島全図」・・・島の東部にある硫黄鉱山と、西部に広がる村落の様子が道路と共に描かれている。
(鶴田 大)

参考文献・調査ノート

(参考文献など)
・『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)
 ※「硫黄鳥島」「鳥島移住」「斎藤用之助」ほか各項目参照。
・『久米島具志川村史』(具志川村史編集委員会 編  具志川村役場 1976年刊)
 ※本資料の活字化(転載)がなされている。
・『沖縄県史 資料編13 硫黄鳥島』〔(財)沖縄県文化振興会 編  沖縄県教育委員会 2002年刊〕
 ※自然環境についての記述が中心だが、「琉球王国時代における硫黄鳥島史の諸相」(豊見山和行)、「硫黄鳥島移住の百年」(上江洲均)では詳しく本資料にふれている。
・齊藤用之助『鳥島移住始末』(1920年刊)
(鶴田 大)

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