史料綱文 [安政1年1月-10月] (しりょうこうぶん)

ヘルプ閉じる

貴重資料ビューワーの操作

操作ボタンの説明

資料のタイプに応じて、表示するボタンの種類が変わります。


ページ切替

資料のページを切り替えます。

先頭のページ/最後のページ、前のページ/次のページ、ページ番号指定
などの基本的なページ切替操作をします。

ページ数表示

ページ切替操作の際に、ビューワー画面の右下に、現在のページ数/総ページ数が表示されます。
一定時間が過ぎると自動的に非表示になります。

ズームボタン 資料画像のズームボタンです。最小サイズ/最大サイズの切替をします。
中央に表示 資料画像をビューワーの中央に再配置します。
スクリーンサイズ切替 資料表示部のサイズを切り替えます。最大サイズの場合、右側の書誌情報エリアが非表示になります。
スケールスライダー マウスドラッグ操作で、資料画像のサイズを無段階調整します。
ページ選択 多数のページを持つ資料に表示されます。一定数ごとにページを切り替えることが出来ます。
翻刻資料を表示 くずし字で書かれた原文を楷書体に置き換えた「翻刻資料」のページを表示します。


マウスの操作について
クリック
  • 資料の前後ページ切替(右クリックは使用しません)
ダブルクリック
  • 単ページ/見開きの表示切替
  • 資料画像サイズの拡大/縮小・段階切替
ドラッグ
  • 資料画像の表示位置移動
  • ダイアログウィンドウの表示位置移動(ダイアログ:このウィンドウなど)
マウスホイール
  • 資料画像サイズの拡大/縮小・段階切替


解説文、その他の詳細情報

解説文などのタブについて
タブの説明
資料によって、解説文の他に詳細な説明を掲載している場合が有ります。表示されるタブの種類は資料ごとに変わります。
資料解説・概要文 貴重資料に関する主な説明・概要文が表示されます。※資料解説の末尾に記載されている氏名は、資料解説の執筆者名です。
詳細解説文 さらに詳しい詳細な説明文、資料に関する情報などが表示されます。
参考文献・調査ノート 資料の解説文作成の際に参考とした資料や、その他の情報が表示されます。


推奨動作環境

  • Internet Explorer 7以上
  • Firefox 3以上
  • Safari 4以上
次のページ
前のページ
0 /
画像を読み込んでいます…

  • 概要・解説文
  • 詳細解説文
  • 参考文献・調査ノート

概要・解説文

 本資料は、琉球王国最後の国王・尚泰(しょう・たい 1843~1901)の伝記『尚泰侯実録(しょう・たい・こう・じつろく)』(1924年刊)が作成された際の材料です。本の著者である歴史家・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん 1882~1963)が『史料綱文』と名付けたこの冊子は全18冊あります。様々な史料の抜き書きや手紙の写しから成り立っています。寛惇は尚家に最も近い学者として知られ、琉球王国の正史『球陽(きゅうよう)』などのほか、尚家に当時伝わっていた文書類を存分に活用してこの一代記を執筆しました。「実録」というのは東アジアで古代から用いられている歴史書の形式を表す言葉で、帝王の一代記を時系列に沿って客観的に綴る形式の歴史書です。また「尚泰侯」の「侯」とは尚泰が明治政府から侯爵の位を授与されたことから来ています。〔※詳しくは本デジタル書庫の『尚泰侯実録』を参照してください。〕

 全18冊の『史料綱文』のうち、この〔安政1年1月-10月〕(1854)は第4冊目です。記事内容は前年に初めて到来したペリー艦隊の動向に関する記述が大部分を占めています。当時、琉球王国を悩ませていた欧米の異国船到来の中でもペリー艦隊の到来は最大の出来事でした。
M.C.ペリー(Matthew Calbraith Perry 1794~1858)は米国海軍軍人として艦隊を率いて1853(嘉永6)年5月26日、那覇港へ到来しました。そしてここを基地として中国や当時の日本へ遠征し、開国を迫りました。大きな時代の変わり目でした。ペリー艦隊は、本資料の時期である1854(嘉永7)年3月31日には神奈川で日米和親条約を締結し、その後、7月11日には琉球王国と琉米修好条約を結び、やがて本国へ帰りました。
 本資料には、ペリー一行が那覇を基点として東アジア各地へ開港・上陸などを要求している時期の混乱した琉球王国と首里王府の様子を映し出す、様々な史料の記事が収集されています。特に「(安政元年)六月十四日」〔※新暦で7月8日〕辺りから条約締結の「六月十七日」(新暦7月11日)に到る時期の史料は互いに粘りづよく交渉を続けるペリー一行と琉球王国政府の様子を映し出しています。条約締結を終えたペリー艦隊は「六月二十三日」〔新暦7月17日〕に那覇を出航し米国へ帰国しました。「六月十七日」分の史料については計7点が厖大な史料群の記事から選ばれて記載されています。ペリー艦隊退去後の時期については、条約締結を受けて動き出した薩摩藩が琉球王国を通して米国などから蒸気船を購入しようと画策している様子を映し出す史料が集められています。それらは『尚泰侯実録』本文にも有効に活かされています。

 『史料綱文』18冊は、本を執筆するための材料ということで、基本的には様々な史料からの抜き書きや手紙本文が、年月日ごとに時系列に沿って順序よく並べられています。史料としては琉球王国の正史(せいし=正式の歴史書)である『球陽』や王府公式文書である『評定所文書〔ひょうじょうしょ・もんじょ ※本資料では記事末尾に「内務省本」とか「異国日記」と記されているものです。〕』をはじめ、薩摩藩の史料である『斉彬公記(なりあきら・こうき)』などさまざまなものが活用されています。記事には引用元が記されていないものもありますが、引用元の史料名が記されている記事も多くあります。『尚泰侯実録』には基本的には史料の出典は記されていません。ですから本資料は『尚泰侯実録』の記述内容の出典史料を知る上でもたいへん貴重な史料です。 
(鶴田 大)

詳細解説文

 本資料が『尚泰侯実録』の基礎資料として東恩納寛惇によって作成された経緯については、『尚泰侯実録』を収録している『東恩納寛惇全集2』〔※(参考文献など)参照。〕の末尾「書誌」部分に、『尚泰侯実録』に関連して、下記のように詳しく書かれています。
 「著者は、執筆に入る前にこれらの史料を原稿用紙に転写する作業から始めたようで、東恩納文庫に『史料綱文』十八冊が残されている。天保十四年から明治三十四年までの史料が編年体で配列されている。原稿用紙に毛筆で転写し、これをさらに年代順に切り取って尚家の罫紙に貼付したものである。」
 「東恩納文庫」というのは財団法人・東恩納文庫のことで、1963(昭和38)年に沖縄に発足しましたが開設直前に東恩納寛惇が逝去したなどの経緯から、1964(昭和39)年には当時の琉球政府の管理となり、そのまま現在の沖縄県立図書館に引き継がれ、図書館内の特殊文庫である「東恩納寛惇文庫」となっています。原稿用紙に書いたものをあらためて他(尚家)の原稿用紙に貼り付けているのは、おそらく沖縄から次々と送られてくる史料を次々と抜き書きし、それを後から年代順に並べたものと見られます。また、この時点で、既に膨大な史料の中から相当に選りすぐって抜き書きがなされている点や、原史料本文の要約が行われている点からみて、寛惇の中に完成形のイメージが出来ていたことがうかがわれます。
 また、本資料を基に刊行された『尚泰侯実録』については、『東恩納寛惇全集2』同上部分に『古文書等緊急調査報告書』〔※(参考文献など)参照〕を参考にして下記のように書かれています。
 本書の初版は、大正十三年に刊行されたのであるが、著者が編纂主任となり史料収集を開始したのは、帝大卒業から二年目の明治四十三に遡る。則ち同年六月十日尚家(東京)に対して「文政年間以降の書籍」「故従一位様御関係書類」及び首里尚家の「御蔵本目録」を請求している。これに応えて、同年秋には、一九三点五六五冊の関係書籍・書類および蔵書目録が首里尚家から東京へ送られているが、これらの資料は、現在も尚家(東京)に秘蔵されている
 東恩納寛惇が本資料執筆に活用したこれら尚家文書はその後、おそらくほとんどが、1995(平成7)年に那覇市歴史博物館に寄贈され所蔵されています。それらは1996(平成8)年に同様に寄贈された美術品などと共に、2006(平成18)年に『琉球国王尚家関係資料』として国宝の指定を受け、2016(平成28)年現在も調査・研究作業が続けられています。また東恩納寛惇が作成した『史料綱文』や『尚泰侯実録(原稿)』などは寛惇旧蔵資料として沖縄県立図書館の東恩納寛惇文庫に所蔵されています。
 さらに歴史史料の運命について感慨深い記述がやはり『東恩納寛惇全集2』の『尚泰侯実録』の後に付された「解題」部分にあります。

 「東恩納寛惇がこの実録を記録するに際し、当時の東京尚家では実録の完成を期すべく、わざわざ沖縄の中城御殿より厖大な史料を東京に取りよせていた。この史料が現在伝存するところの尚家史料である。その時の史料転送の書簡はいまも尚家に保存されている。もし東恩納寛惇がこの実録を記録する機会がなかったならば、或るいは今日の尚家史料は皆無に等しいものとなっていたかも知れない。」

 尚家史料が沖縄戦を免れ現存しているのは本来、沖縄に保管される史料が偶々、東京へ移管されていて、しかも東京空襲からも守られたからです。上述のようにこれらの史料のおそらくほとんどが現在は沖縄に里帰りしています。
(鶴田 大)

参考文献・調査ノート

(参考文献など)
・『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)
 ※「尚泰侯実録」「尚泰」「東恩納寛惇」「ペリー」ほか各項目参照。
・『尚泰侯実録』
 ※本資料は1924年に櫛引弘太により発行されたもの。その後、1971年に原書房から復刻され、さらに1978年に『東恩納寛惇全集2』に収録された。「全集」には解題、書誌が付されている。
・『古文書等緊急調査報告書』(沖縄県教育庁文化課編 1976年刊)
 ※『尚泰侯実録』執筆に当たって東恩納寛惇が沖縄から尚家の資料を東京へ取り寄せた経緯の詳細について詳しくまとめている。
・『球陽』(首里王府・編 桑江克英・訳注 三一書房 1971年刊)
  ※『史料綱文』作成にあたっての主要な史料の一つ。琉球王国の正史。『球陽』は他に角川書店から原文編・読み下し編が刊行されている。
・『沖縄県史料 ペリー来航関係記録1』(沖縄県沖縄史料編集所・編 沖縄県教育委員会 1982年刊)
 ※琉球王国の公式記録である評定所文書(ひょうじょうじょ・もんじょ)の一部であり、本資料と同時期のペリー来航関係の文書「亜船来航関係史料」の一部を収録している。朱字で「異国日記」「内務省本」などと記されている記録類がこうした評定所文書とみられるが、内務省に保管されていたこれらの書類は大正期の関東大震災(1912年)で失われているので、寛惇は或いは失われた文書を活用しているかもしれない。この本に掲載されている評定所文書は東京大学法学部所蔵の筆写本で、本資料と同時期の1853~1854年のもの。
・『尚泰王』(上中下・三冊 与並岳生・著 ※「新琉球王統史」第18~20巻として刊行。 新星出版 2006年刊)
  ※「琉球処分」の副題の通り、尚泰時代の歴史がわかりやすくまとめられている。
 

(調査ノート)
・出典史料については、たとえば、五月十七日の記事〔※米国船の水兵が酔って那覇の人家へ侵入し、女性にたわむれ、通行人に追われ逃亡したあげく三重城の橋から落ちて溺死したという内容〕は琉球王国評定所文書に元となる記述がみえる。「亜人成行御国許へ御届之扣」の中にある同日の記事で、長文の記事の一部を抄書したことがわかる。引用記事の末尾に「内務省本」という寛惇による注記がみえる。この記事はペリー関係の内容ということで『尚泰侯実録』にも活かされている。〔『沖縄県史料 ペリー来航関係記録1』p.498 ※(参考文献など)参照。〕
・ペリー来琉の記事については薩摩藩の『斉彬公記』などが出典として多く活用されている。記事末尾に朱字で「内務省本」と注記のある記事は『旧琉球藩評定所書類』〔※(参考文献など)参照〕とみられる。それらの史料をみていくと、同内容文書がみつかるが、その原文とかなり相違のある記述が確認される。同時期の評定所文書で大正期に関東大震災で亡失した史料も多量にあるので、それら散逸史料から採ったものと考えられる。
・琉球王国の評定所文書について寛惇は、『校注 羽地仕置』の解題の中で、〔内務省に移管されたそれらの文書を既に1907年頃までにはほとんど通読して必要な分についてはノートを取っていたが、その後、1912年に関東大震災でこれら内務省所管の文書はすべて失われた〕という内容を記している。内務省所管文書の一部は東京大学法学部などに筆写本が残されていて『沖縄県史料 ペリー来航関係記録1』〔※(参考文献など)参照〕などに活字化されている。
・「候文」でない文書については筆写の筆跡も寛惇のものではないので、別系統の史料を筆写したものと考えられる。既に日本語訳が閲覧可能であったとみられる、ペリーの『日本遠征記』〔※1912年に鈴木周作訳『ペルリ提督日本遠征記』などが既に出版されている。〕や、サムエル・ウイリアムズの『ペリー日本遠征随行記』〔※1910年に『日本アジア協会紀要』第37巻別巻として刊行〕などを参照されているかもしれないが未調査。
・『史料綱文』全18冊のうち、〔弘化元年~慶應四年〕分は、基本的に「尚泰侯年表」〔『尚泰侯実録』付録部分〕の当該年代部分の草稿とみられる。『史料綱文』〔弘化元年~慶應四年〕分に記載があるが「尚泰侯年表」では省かれている記事もあり、反対に『史料綱文』〔弘化元年~慶應四年〕分には記載が無いが「尚泰侯年表」には加筆されている記事もみられる。中には全く同文の記述もみられるが、全体としては、まだ完成稿からは遠い草稿状態のものとみられる。また、『史料綱文』〔弘化元年~慶應四年〕は他の『史料綱文』同様、「尚泰侯年表」では省かれている史料出典が時折、記されており、その点でも重要な情報といえる。
(鶴田 大)

しばらくお待ちください