史料綱文 [明治6年3月-明治7年12月] (しりょうこうぶん)

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概要・解説文

 琉球王国最後の王・尚泰(しょう・たい 1843~1901)の逝去に伴い、尚家と親交の深かった歴史家・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん 1882~1963)により尚泰の伝記『尚泰侯実録』が書かれました。その際に寛惇が執筆の資料として作成したのがこの「史料綱文」です。〔※本デジタル書庫の『尚泰侯実録』も御参照ください。〕
 なぜ「尚泰王」でなく「尚泰侯」か。尚泰は元々琉球国王でしたが、明治維新~廃藩置県の過程で琉球王国が沖縄県とされたのに伴い、後半生は侯爵として明治政府体制の一員となっていたからです。また「実録」というのは古来アジアにおいて、皇帝や王らが亡くなった際に、その事跡を実際の資料に即して事項羅列(じこう・られつ)的にまとめる形式の伝記のことです。実録を元に王朝の正史が編纂されます。実録は古代中国において作成されるようになり、朝鮮半島の諸王朝や古代日本でも断続的に行なわれてきました。琉球王国では尚泰以前の実録は知られていません。

 この史料綱文は年代順に全部で18冊にまとめられています。この〔明治6年3月-明治7年12月〕(1873~1874)は第11冊目です。本冊では琉球王国が明治日本の一部に組み込まれる、いわゆる「琉球処分」の過程を示す記事が中心です。寛淳が『尚泰侯実録』で「琉球処分の漸進(ぜんしん)主義」(明治7年の項)と記述している通り、明治政府は巧妙に琉球王国の自主統治権への干渉を進めます。これまで琉球が間接支配を受けていた薩摩藩の権益の廃止や、明治政府へ納める租税の軽減で厚遇をアピールする一方で、琉球が仏米蘭三国と結んだ条約全文を提出させ、三司官(さんしかん=琉球王府の行政の事実上の長官)の人事を明治政府の許可制にするなど、いつの間にか琉球が明治政府の全面的支配を受ける体制が整えられていきます。また台湾事件(明治4年)に対する台湾出兵(明治7年)により明治政府は清朝に「琉球が明治日本に属すること」をそれと気づかせずに事実化していきます。
 
 ところで、なぜ寛惇が近代的な歴史家として十分な技量を持ち、豊富な資料に恵まれたにも関わらず、「実録」というアジア伝統の古風な事項羅列的な伝記をまとめたのでしょうか。勿論、史料の選択や各事項の簡潔な説明には寛惇の優れた歴史観がうかがえますが、疑問も生じます。そこには当時の複雑な社会背景があるようです。
 一つには当時、明治政府が歴代天皇の「実録」をアジア的な伝統・権威を強調するかたちでまとめつつあり「実録」は時流に沿ったものであったこと。寛惇も明治政府に倣って伝統的権威を尚泰の伝記に持たせることを企図したのでしょう。
 もう一つには、尚泰の一生がまさに琉球王国が明治日本に組み込まれる過程そのものであり、史料の選択や各事項の説明の内容によっては明治政府批判につながる危険を持っていたことが考えられます。「実録」が書かれた大正期においても国家体制(≒国体)批判は最大のタブーでした。寛惇は尚家への敬意が厚く、尚家が華族として連なる天皇家をも重んじていました。このため「実録」が尚家や天皇家、明治政府の批判につながらないように慎重に史料の選択を行ない、それら史料の説明についても細心の注意を払ったようです。
 この『史料綱文』は主に次の二つの意味で重要な資料です。一つは『尚泰侯実録』をまとめるにあたり、寛惇がどのような資料を集め、さらにそれらをどのように取捨選択していったかを具体的にうかがうことのできること。もう一つには『尚泰侯実録』には収録されなかった多くの歴史史料が豊富に含まれていることです。
(鶴田大)
 

詳細解説文

 本資料は、本を執筆するための材料なので、基本的には様々な史料からの抜き書きや手紙本文が、年月日ごとに時系列に沿って並べられています〔※ただし、時折、記事の内容をまとめて並べるために時系列が前後している箇所もあります〕。史料としては琉球王国の正史(せいし=正式の歴史書)である『球陽』や王府内の日記とみられる『内用日記』をはじめ、薩摩藩の史料である『斉彬公記(なりあきら・こうき)』などさまざまなものが活用されています。記事には引用元が記されていないものもありますが、引用元の史料名が記されている記事も多くあります。『尚泰侯実録』には基本的には史料の出典は記されていません。ですから本資料は『尚泰侯実録』の記述内容の出典史料を知る上でもたいへん貴重な史料です。
 本資料が『尚泰侯実録』の基礎資料として東恩納寛惇によって作成された経緯については、『尚泰侯実録』を収録している『東恩納寛惇全集2』〔※(参考文献など)参照。〕の末尾「書誌」部分に、『尚泰侯実録』に関連して、下記のように詳しく書かれています〔※執筆は富島壮英〕。
 
著者は、執筆に入る前にこれらの史料を原稿用紙に転写する作業から始めたようで、東恩納文庫に『史料綱文』十八冊が残されている。天保十四年から明治三十四年までの史料が編年体で配列されている。原稿用紙に毛筆で転写し、これをさらに年代順に切り取って尚家の罫紙に貼付したものである。
 
「東恩納文庫」というのは財団法人・東恩納文庫のことで、1963(昭和38)年に沖縄に発足しましたが開設直前に寛惇が逝去したなどの経緯から、1964(昭和39)年には当時の琉球政府の管理となり、そのまま現在の沖縄県立図書館に引き継がれ、図書館内の特殊文庫である「東恩納寛惇文庫」となっています。原稿用紙に書いたものをあらためて他(尚家)の原稿用紙に貼り付けているのは、おそらく沖縄から次々と送られてくる史料を抜き書きし、それを後から年代順に並べたものと見られます。また、この時点で、既に膨大な史料の中から相当に選りすぐって抜き書きがなされている点や、原史料本文の要約が行われている点からみて、寛惇の中に完成形のイメージが出来ていたことがうかがわれます。
 
 また、本資料を基に刊行された『尚泰侯実録』については、『東恩納寛惇全集2』同上部分に『古文書等緊急調査報告書』〔※(参考文献など)参照〕を参考にして下記のように書かれています。
 
本書の初版は、大正十三年に刊行されたのであるが、著者が編纂主任となり史料収集を開始したのは、帝大卒業から二年目の明治四十三年に遡る。則ち同年六月十日尚家(東京)に対して「文政年間以降の書籍」「故従一位様御関係書類」及び首里尚家の「御蔵本目録」を請求している。これに応えて、同年秋には、一九三点五六五冊の関係書籍・書類および蔵書目録が首里尚家から東京へ送られているが、これらの資料は、現在も尚家(東京)に秘蔵されている。
  
 東恩納寛惇が本資料執筆に活用したこれら尚家文書はその後、おそらくほとんどが、1994年~1996年に那覇市へ寄贈されその後、那覇市歴史博物館(2006年開館)に所蔵されます。それらは同様に寄贈された美術工芸品などと共に、2006(平成18)年に『琉球国王尚家関係資料』として国宝の指定を受け、その後も調査・研究作業が続けられています。また東恩納寛惇が作成した『史料綱文』や『尚泰侯実録(原稿)』などは寛惇旧蔵資料として沖縄県立図書館の東恩納寛惇文庫に所蔵されています。
 
 さらに歴史史料の運命について感慨深い記述がやはり『東恩納寛惇全集2』の『尚泰侯実録』の後に付された「解題」部分にあります〔※執筆は喜舎場一隆〕。
    
東恩納寛惇がこの実録を記録するに際し、当時の東京尚家では実録の完成を期すべく、わざわざ沖縄の中城御殿より厖大な史料を東京に取りよせていた。この史料が現在伝存するところの尚家史料である。その時の史料転送の書簡はいまも尚家に保存されている。もし東恩納寛惇がこの実録を記録する機会がなかったならば、或るいは今日の尚家史料は皆無に等しいものとなっていたかも知れない。
 
尚家史料が沖縄戦を免れ現存しているのは本来、沖縄に保管される史料が偶々(たまたま)、東京へ移管されていて、しかも東京空襲からも守られたからです。上述のようにこれらの史料のおそらくほとんどが現在は沖縄に里帰りしています。
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献など)
・『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)
 ※「尚泰侯実録」「尚泰」「東恩納寛惇」「琉球処分」「台湾事件」ほか各項目参照。
・『尚泰侯実録』
 ※本資料は1924年に櫛引弘太により発行されたもの。その後、1971年に原書房から復刻され、さらに1978年に『東恩納寛惇全集2』に収録された。「全集」は初刊本を底本にしており、新たに解題、書誌情報が付されている。
・『古文書等緊急調査報告書』(沖縄県教育庁文化課編 1976年刊)
 ※『尚泰侯実録』執筆に当たって東恩納寛惇が沖縄から尚家の資料を東京へ取り寄せた経緯について、寛淳が明治43年(1910年)に尚泰の「御伝記」の編纂主任となり作業が着手されたことが史料をもとに記されている。また尚家文書類の各種目録が掲載されている。
・『尚家関係資料総合調査報告書Ⅰ 古文書編』(那覇市市民文化部歴史資料室・編 2003年刊)
 ※那覇市が東京の尚家から寄贈(1994年~1996年)を受けた尚家継承品のうち、古文書約1300点余について調査を行なった結果をまとめたもの。分野ごとの概要を記した論考、尚家文書についての既存の各種目録についての紹介、および「尚家継承古文書目録」が収録されている。その後、各文書の個別調査は那覇市歴史博物館(2006年開館)に引き継がれた。
・『琉球・沖縄史の世界 〔日本の時代史18〕』(豊見山和行・編 吉川弘文館 2003年刊)
 ※第5章「王国の消滅と沖縄の近代」(赤嶺守・執筆)に尚泰の生きた時代(明治以降)がわかりやすくまとめられている。
・『沖縄歴史論序説』(高良倉吉・著  三一書房 1980年刊)
 ※第二部Ⅲ「近代の沖縄歴史研究」に東恩納寛惇の歴史家としての事跡について詳しく述べられている。「東恩納は実証主義歴史学の畑で育ち、その方法に立脚して沖縄の歴史や文化を論じ、またこの方法に誇りを持った研究者であった。」(p.212)として『尚泰侯実録』にもその方法論が活きていると評価している。
・『球陽』(首里王府・編 桑江克英・訳注 三一書房 1971年刊)
 ※『史料綱文』作成に使用された主要な史料の一つ。琉球王国の正史。『球陽』は他に角川書店から原文編・読み下し編が刊行されている。
・『尚泰王』(上中下・三冊 与並岳生・著 ※「新琉球王統史」第18~20巻として刊行。 新星出版 2006年刊)
 ※「琉球処分」の副題の通り、尚泰時代の歴史がわかりやすくまとめられている。各冊末尾に詳細な琉球・沖縄史の年表があり、事項の確認にも活用できる。
 
(調査ノート)
・『史料綱文』(18冊)は、基本的に『尚泰侯実録』の当該年代部分の初期段階の草稿とみられる。注記も『尚泰侯実録』に記される事項注釈と異なり、自分用の注記が朱筆で書かれているのみ。各冊の間には期間の重複もあり、また欠落している年代部分もあるので、或いは散逸した分冊があるかもしれない。『史料綱文』各冊の内容には『尚泰侯実録』に掲載が無い記事がある一方、『史料綱文』には記載が無いが『尚泰侯実録』に新たに加筆されている記事もみられる。全体として前半は薩摩藩に関わる記事が多く、後半は明治政府に関わる記事が多い。いずれも『尚泰侯実録』においては各事項を入念に取捨選択しており、その注記も薩摩藩・明治政府に対して批判的にならないよう配慮がなされている。
・『史料綱文』編集(1919年~)および『尚泰侯実録』刊行年(1924年)の時代状況として、治安警察法(1900年)が既に成立しており、治安維持法(1925年)成立の直前であるということが一般的状況として挙げられる。『国史大辞典』などを参照すれば、前者は主に労働運動を取り締まるものであり、後者は全体的な思想言論統制とされる。いずれにせよ、「万世一系ノ天皇君臨シ統治権ヲ総攬シ給フコト」(治安維持法に基づく大審院判決)がこれら法律の主眼であり、いわゆる「国体」(≒天皇中心の国家体制) 護持に対する思想・言論統制がこの時期、次第に強まっていたとされる。「琉球処分」への否定的見解はまぎれもなく国体批判・否定に当たり処罰となる。寛淳は『史料綱文』編集や『尚泰侯実録』執筆において細心の注意を払ったと考えられる。
・明治政府による歴代天皇の実録編纂は明治24(1891)年、明治中興史編輯局において着手され、明治40(1907)年、『孝明天皇紀』刊行に結実した。その後、宮内省において明治天皇紀、大正天皇紀などが編纂されていく。
・『尚泰侯実録』は実証的・客観的な史料として評価され、広く知られる一方で、「琉球処分期の重要人物の史料としては不十分」(我部政男・執筆 『国史大辞典』〔吉川弘文館〕の項目「尚泰」)という指摘もある。たしかに尚泰やその時代を扱う歴史書において、『尚泰侯実録』からの引用が多いとはいえない。そこには、やはり「国体」(≒国家体制)の批判がタブーであったという時代的制約がその内容を限定的にしていたとも考えられる。
・『尚泰侯実録』の記述は、「実録」という歴史書の形式に忠実で、おおむね史料に忠実な実証的・客観的な傾向の強い内容と言えるが、現在、普通に入手できるこの時代の歴史概説書を参照すれば『尚泰侯実録』において敢えて避けたとみられるトピックや記述が少なからず存在しているとわかる。例えば琉球王国存続を企図した脱清人と琉球王府の動向の史料が見られないこと、「琉球処分」史料に関わる必要十分な説明記述がないこと、「牧志・恩河事件」という重要な事件の史料が大幅にカットされていることなどである。いずれも尚家や明治政府への配慮がうかがわれる。
・『尚泰侯実録』について、『沖縄大百科事典』の「尚泰侯実録」の項目に「歴史事実を、年月日順に、主観を交えず記している」(井上秀夫 執筆)とあり、『東恩納寛淳全集2』の解題にも「まったく主観を入れることなく」記録している(解題p.7 喜舎場一隆 執筆)とあるが、やや書き過ぎとみられる。「客観的記述」は「実録」の理念だが、実際に読んでみると各史料の説明においては、かなり主観的な歴史観が全編に渡って記述されている。とはいえ、寛惇の私的な歴史観というより当時の一般的な歴史観に基づく記述という性格が強く、当時としては「客観的」または「一般的」だったとも言える。
・明治6年は改暦の年で、前年12月3日を改めて1月1日とし、以後、新暦となった。書類上の日付は旧暦が混在しており、旧暦の日付の上部に朱筆で新暦の日付が記入されている記事が多い。
・本冊の後半に記事「明治八年七月二十六日」付(高安親方から伊江王子への書状写し)がある。この記事は「唐御代替相成」(=清朝の同治帝崩御)という内容や「亥七年二十六日」(亥年)という記述から明治8年の記事と考えられる。内容的からみて、意図的にこの分冊に収録したのではなく、単純な混入とみられる。
(鶴田大)
しばらくお待ちください