閩山游草・続閩山游草 (びんざんゆうそう ぞくびんざんゆうそう)

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概要・解説文

 蔡大鼎(1823頃~1884頃)は那覇久米村(くめむら)出身の政治家・外交官で、琉球王国末期頃に活躍しました。『閩山游草』は大鼎が清朝(しんちょう)中国へ外交官として派遣された際に詠んだ漢詩を集めた漢詩集です。「閩山」とは琉球王国が中国との交通の拠点としていた福州のことで、渡来系である久米村出身者たちの故郷でもあります。「游草」はその地への往復・滞在(≒游)を通して感じたことを記録(≒草)したもの、というような意味です。『閩山游草』は版本ですが現在広く知られているのは沖縄県立図書館の本のみです。

 漢詩というと現在では全くの趣味のようですが、当時は政治家や外交官らが自身の世界観や人間性を表現し、互いに理解を深めるための重要な手段でもありました。大鼎は明治日本に併合されつつあった琉球王国の存続を求めて、得意の漢詩を用いて広く中国や琉球国内に訴えました。『閩山游草』の内容は直接、琉球王国の存続を訴えるものではありませんが、こうした漢詩集を中国の文人らの序文と共に中国で出版すること自体が、琉球王国と清朝中国との密接なつながりや王国の文化力や存在感を広く訴える意図によるものだったとみられています。

 『閩山游草』は内容的には二つの詩文集が合わさったものです。1861年~1863年頃の第一回目の福州渡航の際の詩文をまとめた「閩山游草」と題名が付された部分(正編とも呼ぶべき部分)と、1868年の第二回目の福州渡航の際の詩文をまとめた「続(しょく)閩山游草」と題名が付された部分です。これら二つの詩文集が元々一冊として合本(がっぽん)されて出版されたのか不明ですが、1873年の同じ時期に出版されたことは確かです。1873年の前年は、明治政府の画策により琉球王国が琉球藩とされた年。琉球国が明治日本によって併合される「琉球処分」と呼ばれる一連の動きが始まった年です。先にふれたように、この漢詩集が「明らかに明治新政府の圧力により次第に日本の属国に組み込まれていきつつある状況に対する精一杯の抵抗であった」(輿石 1997年)とみられるのはこのためです。

詳細解説文

 明治日本による琉球王国併合に際しては、多くの琉球人が清朝中国の政治力に琉球王国復興の望みを託しましたが、清朝中国の弱体化もあり、結局1879年に琉球国は沖縄県として完全に明治日本の一部となってしまいます。中には琉球王国の未来に絶望して自害した林世功(りん・せいこう 1842~1880)のような政治家・外交官もいました。世功は大鼎と行動を共にした人物で、大鼎の著作にしばしば名前が出てくるほか、漢詩集『琉球詩録』を残しています。蔡大鼎自身も1884年までは福州に滞在していたことが知られていますが、その後どのような後半生を送ったかは知られていません。

 『閩山游草』の中から冒頭の一首「次慶良間安護浦」(≒慶良間島(けらまじま)の安護浦(あごのうら)に次(と)まる)を読んでみましょう。この詩は蔡大鼎ら中国へ向かう外交使節一行の船が那覇港を出て、慶良間諸島で天候の様子をうかがいながら停泊している際に詠まれたもの。不安と期待、中国への憧れの気持ちが彩り豊かに表現されています。

「東西馬歯分濃淡。滾滾濤声送客船。掩映山光帆上下。恰如米老画図伝。」

(現代語訳:古来、「馬歯(ばし)」と呼ばれる渡嘉敷島(とかしきじま)と座間味島(ざまみじま)の島影は東西に並んで濃淡豊かに陽光の中にただよう。こんこんと湧きたつ波の音が見送りの声のように私の乗っている停泊中の船に打ち寄せる。島々の山はまばゆいばかりに照り映えて、船の帆は波の動きにつれて上下に揺れ動く。それはまるで中国古代の画家・米芾(べいふつ)の水墨画の世界を描いているかのようだ。)

(読み下し文案:東西の馬歯は濃淡を分かつ。滾滾(こんこん)たる濤声(とうせい)は客船を送る。掩映(えんえい)たる山光(さんこう)、上下する帆。恰(あたか)も米老(べいろう)の図伝(ずでん)を画(えが)くが如(ごと)し。)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス 1983年) ※「蔡大鼎」「閩山游草」「北上雑記」「琉球処分」「分島問題」「林世功」ほか各項目参照。
『琉球・沖縄史』(新城俊昭 編著 編集工房 東洋企画 2014年) ※第3部 第5章「廃琉置県」参照。
『蔡大鼎集』(輿石豊伸 訳注 オフィス コシイシ 1997年)※蔡大鼎の漢詩文集である『閩山游草 正・続』『北燕游草』の翻刻・読み下し・現代語訳・解説が詳しくなされている。
『明治国家と沖縄』(我部政男 三一書房 1979年)
『球陽』(首里王府 編 角川書店 1974年)
『球陽』全文検索web版(※「蔡大鼎」で検索すると記事がみつかる。)
http://tutenze.pluto.ryucom.jp/public_html/msearch151/kyuyouzenbun/mamas.cgi
『那覇市史 第1巻6 家譜資料2』(那覇市企画部市史編集室 編・刊 1980年) ※下巻のp.932~933にかけて「十世祖伊計親雲上大鼎」としてその事跡が掲載されている。

(調査ノート)
・蔡大鼎は蔡氏伊計家の10世。字(または号)は汝霖(じょりん)。家譜資料が失われているため、生没年など詳細は不明。『球陽』巻22、および『那覇市史 第1巻6 家譜資料2(下)』の「真境名安興編「県史編纂史料・那覇ノ部」抜粋」に若干の事跡が記載されていることが知られている。残された漢詩文集などからおおよその経歴・事跡が判明しており『蔡大鼎詩集』の輿石氏の解説文・年表に詳しい。
・『球陽』巻22の記事の内容は大鼎の親孝行のありさまに感銘を受けた首里王府が褒賞として山水画などを贈ったというもの。同様の記事が家譜(『那覇市史 第1巻6 家譜資料2』)にもみつかっている。(『蔡大鼎集』解説参照。)
・1860年に派遣された清朝中国への進貢使節の一員として、蔡大鼎は初めて中国へ渡る。役職は在留通事で、実際の仕事は、将来 正式の通訳官となるべく語学や文化を学ぶことだった。このとき、大鼎は北京へは行かずに福州の「柔遠駅(じゅうえんえき≒琉球からの使者らが滞在する施設)」に留まり、語学・文化を学ぶ日々を送った。この体験が大鼎の歴史認識や漢詩文の深化に多大な影響を及ぼしたと考えられている。
・『閩山游草』(正編)が作られた1860年当時、中国は第二次アヘン戦争で、外交使節を迎えるどころではなく、咸豊帝も北京を離れ避難生活を送っていた。
・当初の大鼎の漢詩は自然や親族友人に対する素直な内容が多かったが、社会の不穏な情勢を受けて、次第に社会への憤り、嘆きを自然に託して詠んだものが多くなっていく。特に中国への渡航が難航し、さらに荒天による海難事故により船が八重山に漂着した頃から、時代の気分を反映したリアリティのある詩編を詠ずるようになっていくといわれている。
・『閩山游草』(正・続)の漢詩群が詠まれた1861~1863年、1868年に続き、1872年~1875年頃に大鼎は三度目の中国渡航を果たしている。その際に詠まれた漢詩集が『北燕游草』。
・1873年には大鼎の漢詩集『閩山游草』『続閩山游草』『北燕游草』が次々と出版される。当時、大鼎が福州に滞在していたこと、序文を福州の文人らが記していることなどから出版元の欽思堂は福州の出版者とも考えられているが詳細は不明。『閩山游草』『続閩山游草』が当初から1冊の本として刊行されたかについても不明。
・大鼎は1876年に尚泰王の密使の一人として中国へ渡る。1879~1880年には北京に滞在し、琉球王国の復活を清朝政府に陳情を続けた。1880年の大鼎自身による序文のある雑記録集である『北上雑記』には1884年までの記録が記述されていて、この時期の蔡大鼎の動きがうかがわれる。大鼎の周囲が政治的に最も緊張していた時期だったが『北上雑記』には政治的な内容の記述はほとんどみられない。王国復興の願いを断たれ1880年に自害した林世功については例外的に記されている。『北上雑記』は1884年に出版された。この時期の蔡大鼎の漢詩はほとんど見当たらないという。日々の仕事に忙殺されていたのだろうか。
しばらくお待ちください