東汀随筆 (とうていずいひつ)

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概要・解説文

本資料は最後の琉球国王尚泰(しょう・たい)の側近として書類保管係を務めた喜舎場朝賢〔きしゃば・ちょうけん 1840年~1916年〕による随筆です。内容は琉球王朝時代の首里王府内部の詳しい事情から、琉球古来の伝説まで様々です。とりわけ尚泰王の側近だった人物の随筆ということで、首里王府の組織・慣習などについての証言は、かけがえのない内容となっています。
また、本資料は1934年に荒木書店から刊行されたもので、喜舎場朝賢の自筆本〔所在不明〕の内容を最も精確に伝える内容を持つ本として重要な意味を持っています。
『東汀随筆』執筆の経緯というのも印象深いものです。それは、大正初年頃、県立図書館館長だった伊波普猷〔いは・ふゆう 1909~1924年、沖縄県立図書館館長。沖縄学の父と称される〕のところへ、朝賢が毎日のように訪れては琉球古来の様々な「珍しい話」をしてくれたので、伊波が本にまとめることを勧めた。そこで朝賢は病のなかで『東汀随筆』を執筆し、伊波の元へ届けた。その後、朝賢はさらに『東汀随筆 続編』を執筆したが、ムリがたたったのか、朝賢の病は進み、やがて亡くなった。伊波は執筆を勧めたことに責任を感じたが、病床の朝賢が伊波に感謝していたと伝え聞いて伊波はホッとした。これが、朝賢が『東汀随筆』をこの世に遺した直接の経緯です。『東汀随筆』〔※正編〕が完成したのは記録などから大正2年〔1913年〕頃とみられます。王朝末期の文人が沖縄学の父とされる伊波普猷へバトンをリレーしたような印象的なエピソードです。
〔※詳しくは本資料の伊波による序文、および「調査ノート」を御覧ください。〕

朝賢がこの本の最終的な原稿をまとめていたのは、残された資料などから、最晩年に近い大正2(1913)年とみられます。〔※「調査ノート」参照〕
既に琉球国は沖縄県となり、尚泰王も亡くなっていますから、朝賢も職務上知り得た様々な知見を存分にこの随筆に書いているようです。特に世の中に誤解されて伝えられている琉球王朝時代の様々のことを朝賢は後世に正しく伝えたかったという意思を持っていたようです。
〔鶴田 大〕

詳細解説文

朝賢が『東汀随筆』を執筆した根本的な動機は、「解説文」でも述べた通り、琉球国が過去のものとなって、むかしのことばや習慣が誤って伝えられている様子に接して、「正しい史実を伝えなければ」という思いだったようです。
例えば第1番目のエピソード「紋門(アヤジョウ)ノ事」では首里城近くに今もある「綾門大道(アヤジョウ・ウフミチ)」について記しています。当時、ある人が朝賢に「首里城前の町並みをアヤジョウというが、ジョウとは道のことだろう。」と言った。朝賢はその人に「そうではない。ジョウは門のことで、あでやかな朱色に塗られた守礼門と中山門(ちゅうざんもん)に因んでその一帯を紋門(アヤジョウ)と呼ぶ。」と応え、「紋(アヤ)」の意味についても「紋船(アヤブネ)」などの例を挙げて詳しく説明した、という内容です。〔※現在は「綾門」「綾船」などの表記が一般に用いられています。〕
また首里王府の行政機構についても「地頭所ノ事」でふれています。ここで詳しく説明されている「両惣地頭(りょう・そうじとう=両総地頭)」という役職の呼称の意味は朝賢の時代から誤解されて広く伝わっていたらしく、『沖縄県史 第1巻〔通史〕』〔1976年刊〕でも誤解されたまま伝えられ、この『東汀随筆』の記述内容が広く知られるようになって以降、やっと正しい情報が伝わったという歴史学上の経緯もあります。これについては至言社刊の『東汀随筆』の解説文〔名嘉正八郎執筆p.254〕や同書「あとがき」〔名嘉正八郎・我部政男執筆p.263〕に詳しく書かれています。「両総地頭」という呼称の意味はやや複雑ですが、大体、以下の通りです。
・琉球国時代の間切〔まぎり=現在の市町村〕の地頭を総地頭(そうじとう)と呼び、間切内の各ムラ〔※現在の字〕の地頭を脇地頭(わきじとう)と呼んだ。
・一方、「両総地頭(りょう・そうじとう)」という呼称があり、これを後代の人々は、「脇地頭と総地頭のこと」だと誤解していた。
・しかし実際には一つの間切に二人の総地頭が存在した場合にこの二人を「両総地頭」と呼んでいた。
・二人の総地頭とは、おおまかに言うと、王族と、在来の豪族である按司家〔あじ・け〕のことで、例えば世継ぎである中城王子(なかぐすく・おうじ)は中城間切の総地頭だが、同時に伊舎堂家(いしゃどう・け)も中城間切の総地頭である。そのようなときに両者を「両総地頭」と呼んだ。

こうした例が『東汀随筆』には多く掲載されています。全十章に分かれ、項目数は263項目に及びます。『東汀随筆』には続編もあり全九章94項目。そちらは明治以降の朝賢の回顧録と呼ぶべき内容で、自身が経験した久米島開墾事業や当時の社会状況が記述されています。琉球国末期の首里王府の混乱状況を伝える回顧録『琉球見聞録』の続編とも呼ぶべき内容です。共に『琉球見聞録』〔至言社 1977年刊〕に収録されています。
〔鶴田 大〕

参考文献・調査ノート

(参考文献など)
・『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)
 ※「喜舎場朝賢」「尚泰(しょう・たい)」「東汀随筆」「綾門(アヤジョー)」「綾門大道(アヤジョーウフミチ)」「琉球見聞録」「総地頭」「脇地頭」「按司(あじ)」ほか各項目参照。〔※『東汀随筆』には『紋門』という表記だが、大百科事典では「綾門」という漢字が用いられ、現在も一般には「綾」の字が使われている。〕
・喜舎場朝賢『東汀随筆』(至言社 1980年刊 名嘉正八郎・我部政男 解説)
・喜舎場朝賢『琉球見聞録』(至言社 1977年刊 付「琉球三冤録」「東汀随筆 続編」)
ほか 

 (調査ノート)
・本資料『東汀随筆』(荒木書店 1934年刊)はいわゆる手書きの文字のガリ版刷り(謄写版)。
・荒木書店は那覇市にあった出版社。
・伊波普猷の序文~目次〔※全体が第一回~第二八回とされている。〕 ~本文~奥付
・各項目は「第一章」などと章立て構成にされている。〔※至言社刊本では第一回~第十回とされ、各項目は「第一」などとされ「章」が省かれている。〕
・伊波普猷の序文によれば、当時、伊波が図書館長を務めていた県立図書館を、喜舎場朝賢は毎日のように訪ねて、様々な「珍しい話」をしてくれた。そこで「随筆の形にして後世に遺されること」を喜舎場朝賢に勧めた。その結果、朝賢は要請に応じて「十冊二百六十三章の随筆」を執筆して図書館へ持ってこられた。さらに「九冊九十四章」を追加して持ってこられたとのこと。
・喜舎場朝賢『東汀随筆』の書誌情報については『東汀随筆』(至言社 1980年)の「凡例」「解説」に詳しい。琉球大学付属図書館伊波普猷文庫に『東汀随筆』と『東汀随筆 続編』の肉筆写本があるが文章の欠落が多く、内容的には戦前に沖縄県立図書館に所蔵されていた「写本」〔※1945年の戦災で亡失〕を元にした本資料「荒木本」(荒木書店刊行本)が、誤字が多いものの、比較的に精確とされる。またそれら諸本の内容を校合(きょうごう)して精確を期したのが至言社刊の『東汀随筆』(1980年刊)であるとしている。
・戦前(1945年)以前に沖縄県立図書館にあった「写本」が喜舎場朝賢自筆の原本に最も近いと至言社刊『東汀随筆』の解説(凡例)では見られているが、実際には毛筆またはペンで書かれた本のことを一般に「写本」と呼ぶので、県立図書館にあった「写本」が朝賢自筆の原本だったと考えられる。特に執筆の経緯に県立図書館が関わっていることを考え合わせるとその蓋然性は非常に高い。伊波普猷文庫本は文章の欠落が多い点からみても、伊波普猷(または代理の筆写人)が筆写して東京転居の際に携行した本とみられる。県立図書館所蔵の戦前の郷土資料目録である「琉球史料目録」〔大正13(1914)年2月版〕では『東汀随筆』は写本とされ、その刊行が「大正2(1913)年」とされているところを考えると、その「写本」こそ朝賢の自筆本であり、「大正2(1913)年」が、「東汀随筆」の原本が県立図書館の伊波普猷の元に届けられた時期、すなわち「東汀随筆」が完成した時期とみてよいと考えられる。また『東汀随筆』〔正編〕に引き続いて書かれた『東汀随筆』〔続篇〕は、伊波普猷の『東汀随筆』序文によれば、朝賢の亡くなる直前に完成したとのことなのでその自筆原稿の完成は大正5(1916)年とみられる。現存しない諸本については書名一覧表等が遺されているのみなので、これ以上の詳細については今後の研究課題となる。
〔鶴田 大〕
しばらくお待ちください