琉球新報の思ひ出 [山之口貘自筆原稿] (りゅうきゅうしんぽうのおもいで やまのくちばくじひつげんこう)

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概要・解説文

 本館所蔵「国吉真哲氏寄贈資料」の中から発見されました。自伝的エッセイ「ぼくの半生記」には国吉真哲(1900~1996)について次のような記述が見られます。――〈当時、国吉真哲、新島政之助、新田矢巣雄、上里春生、桃原思石、山里永吉、松田枕流などの詩人歌人がいて、琉球の文壇は賑やかであった。なかでも「群盲」に出た国吉灰雨(真哲)の「不良少年の歌」と題する長詩は異色で、連載されていたが、ぼくが灰雨に甘えたのはその詩を読んでからのことである〉――〈当時〉とは大正末期、1924年頃のこと、貘は、国吉真哲、上里春生、伊波文雄らとともに、泊高橋近くで「琉球歌人連盟」を発足させ、活発な文学活動を展開していました。以来、彼とは、終生交流が続けられました。
 発見された原稿は全て同種の原稿用紙(「神楽坂下 山田製」・橙色・10×20×2)で、もとは四百字詰原稿用紙4枚であったものが、画像に見られるように、4枚の用紙が半裁され、半裁された8枚のうち文章が書かれている7枚が残されました。初出は「琉球新報」1954年7月31日号。東京から沖縄の国吉に郵送された4枚が、おそらく編集の段階で半裁され、活字化された後に国吉の手元に保管されたのではないかと思われます。7に見られる〈琉〉〈31日特集号〉〈十三バイグミ〉等の色鉛筆による書き込みは編集部の手になるもので、署名の〈貘〉については誤って〈漠〉〈獏〉と活字化されないよう〈この字活字に注意〉と注記されています。また、7から切り取られた署名の〈山之口貘〉はそのまま7月31日号の紙面に使われました。内容を整理してみましょう。
① 上京以来、丸31年が経過した。
② ある民間放送局からの話で31年ぶりに帰郷することになっていたが都合で実現しなかった。
③ この原稿は琉球新報東京総局の渡久地女史からの依頼である。
④ 県立一中の二年頃から琉球新報に詩を発表していた。
⑤ 琉球新報に詩が掲載されるようになったのは編集にいた古波鮫漂雁の世話による。
⑥ 県立一中三年の時にサムロというペンネームで琉球新報に「石炭」を発表した。
⑦ 「石炭」は、人間に階級があると説いた博物の坂口総一郎教諭にたいする反論の詩である。
⑧ 先生を馬鹿にした詩を書いたことで父に散々殴られた。
⑨ 沖縄から大馬鹿者の芸術家が出ることを祈る。
 ①は1922年の最初の上京から数えて〈丸31年〉。④⑥⑦⑧は「ぼくの半生記」やその他の自伝的エッセイの記述とほぼ同じ内容です(ただし、坂口教諭の名前を明らかにしたのはこれが最初です)。しかし、②⑤は本稿で初めて明らかになりました。貘の帰郷は1958年11月のこと。仮に1954年に31年ぶりの帰郷が実現していたのであれば、帰郷前後に書かれた作品もいくぶん違ったものになっていたのかもしれません。古波鮫漂雁(1897~1937)は「琉球新報」「沖縄タイムス」の記者として活躍する一方、「琉球新報」紙上に詩や戯曲を書いていた人物です。県立一中時代の貘は、すでに「乞食」(1916年)等を発表していた6歳年上の漂雁に何らかの詩的感化を受けていたのかもしれません。ところで、掲載紙には人物のカットが添えられています。5の本文部分に見られるように「古波鮫漂雁」に赤色鉛筆の傍線を引き、欄外に〈※この人の写真か似顔カットをつければ、また、面白いでせう〉という編集部のコメントを参考にすれば、描かれているカットは在りし日の小波鮫漂雁の姿のように思われますが、実際は詩作「結婚」の世界をイメージし、タンスの陰でガマ口を開いて〈おかねがおかねが〉と泣いている貘の姿をユーモラスにスケッチしたものです。同一カットが前年の「朝日新聞(東京版)」10月30日号の「人さまざま」欄に貘の紹介記事とともに掲載されており、「朝日新聞」のカットを「琉球新報」の編集部がそのまま借りて用いたことがうかがえます。*文中の数字は画像のデジタル番号です。原稿用紙枚数と数字が一致するわけではありません。詳細は「『山之口貘文庫』草稿細目」を御覧ください。

(松下博文)

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