安国山樹華木之記 [拓本] (あんこくざんじゅかぼくのき)

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概要・解説文

 高温多湿な琉球文化圏においては古い紙資料があまり残されていません。豊かな自然やそれを反映した独特の精神文化は主に芸能などの口伝えの文化(=口承文化)や工芸品というかたちで残されているようです。現存する紙資料に乏しい分、お寺の鐘などに記された文字や石碑の文章など(=金石文 きんせきぶん)はとても貴重な文字資料であり美術品です。でもこの石碑は1427年に造られた現存最古の琉球における金石文であり文字資料として、またその豊かな内容によってその時代の雰囲気を伝える文化財として著名です。記録上でも、琉球王国時代の文書などにみられる、年代の明かな文字資料としては最古ですから奇跡的に残された文化財と言っても言い過ぎではないでしょう。

 石碑が建てられたのは第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう 1406~1469)の時代です。第一尚氏王統は琉球史上、それまでの伝説的な部分の多い王統と異なり、はっきりとした歴史のわかる最初の統一王統です。1427年という年は王統の実質的な創始者である尚巴志(しょう・はし)が沖縄本島の諸勢力を統一して正式に「琉球王国」を打ち立てた1429年の直前の時期です。碑文の内容も、王城としての首里城とその周辺を整備して池を作り、多くの花木を植えたというもので「琉球王国」が誕生する息吹を活き活きと伝えています(※文章の内容は「調査ノート」参照)。石碑が建てられた場所は当時、安国山と呼ばれた、園比屋武御嶽(そのひゃん うたき)の裏手あたりでした。

 文章を作成したのは澹菴(たんあん)という中国・安陽の人物。澹菴について詳しいことは不明ですが、首里城周辺についての具体的な歴史や観察が述べられていることから、何らかの立場で琉球王国に渡来していた人物と考えられます。当時、琉球国王の補佐役として中国からの渡来系の人物が広く活躍していたことが知られています。石碑の石材も以前は琉球には通常産出せず中国に産出する輝緑岩(きりょくがん)とされていましたが、近年では琉球産の細粒砂岩(さいりゅうさがん ニービヌフニ)であることが確認されているので、石碑そのものも琉球で造られたと考えられます。琉球の金石文は石碑上部の華麗な装飾(※太陽や鳳凰、雲などの文様)の美しさや時代による変化が一つの見所ですが、この石碑にはまだそのような装飾がありません。また漢字・仮名文字の使い分けや、書としての鑑賞も見所ですが、この石碑についてはまだ書としての詳しい考察はないようです。

 石碑の文章についてはいつの間にか不明となっていたようで、王府がまとめた『琉球国由来記』(りゅうきゅうこくゆらいき 1713年)には「碑文の題名や時代は読めるが、内容については文字がすり減ってよく読めない」という内容が記されています。石碑の文字は拓本にするとよく読めることが多いのですが、この石碑についても、まさに昭和初期に久場政用(くば・せいよう 1872~1947)が作成したこの拓本を元に歴史家・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)らにより解読が進み、内容の詳細が明らかになりました。沖縄戦(1945)により石碑の一部が壊れ、現在は県立博物館に保管されています。
(鶴田 大)

詳細解説文

 明治日本による琉球王国併合に際しては、多くの琉球人が清朝中国の政治力に琉球王国復興の望みを託しましたが、清朝中国の弱体化もあり、結局1879年に琉球国は沖縄県として完全に明治日本の一部となってしまいます。中には琉球王国の未来に絶望して自害した林世功(りん・せいこう 1842~1880)のような政治家・外交官もいました。世功は大鼎と行動を共にした人物で、大鼎の著作にしばしば名前が出てくるほか、漢詩集『琉球詩録』を残しています。蔡大鼎自身も1884年までは福州に滞在していたことが知られていますが、その後どのような後半生を送ったかは知られていません。

 『?山游草』の中から冒頭の一首「次慶良間安護浦」(≒慶良間島(けらまじま)の安護浦(あごのうら)に次(と)まる)を読んでみましょう。この詩は蔡大鼎ら中国へ向かう外交使節一行の船が那覇港を出て、慶良間諸島で天候の様子をうかがいながら停泊している際に詠まれたもの。不安と期待、中国への憧れの気持ちが彩り豊かに表現されています。

「東西馬歯分濃淡。滾滾濤声送客船。掩映山光帆上下。恰如米老画図伝。」

(現代語訳:古来、「馬歯(ばし)」と呼ばれる渡嘉敷島(とかしきじま)と座間味島(ざまみじま)の島影は東西に並んで濃淡豊かに陽光の中にただよう。こんこんと湧きたつ波の音が見送りの声のように私の乗っている停泊中の船に打ち寄せる。島々の山はまばゆいばかりに照り映えて、船の帆は波の動きにつれて上下に揺れ動く。それはまるで中国古代の画家・米?(べいふつ)の水墨画の世界を描いているかのようだ。)

(読み下し文案:東西の馬歯は濃淡を分かつ。滾滾(こんこん)たる濤声(とうせい)は客船を送る。掩映(えんえい)たる山光(さんこう)、上下する帆。恰(あたか)も米老(べいろう)の図伝(ずでん)を画(えが)くが如(ごと)し。)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年) ※「安国山樹華木之記碑」「琉球国碑文記」「金石文」「久場政用」「琉球における文字」「仮名文字」「漢字」ほか各項目参照。
『教養講座 琉球・沖縄史』(新城俊昭・著 編集工房 東洋企画 2014年)
『東恩納寛惇全集』第7巻(第一書房 1981年) ※久場政用による拓本のうち、寛惇所蔵の拓本一覧が掲載されている。第7巻所収の『南島風土記』には琉球王国時代には判読できなかった碑文の内容が寛惇により解読されている。
『比嘉春潮全集』第二巻(歴史編) (沖縄タイムス社 1971年)
『琉球金石文拓本集成』(沖縄県立図書館 編・刊 1981年)
『石碑復元計画調査報告書』(那覇市 2004年刊) 諸研究の成果による石碑の文章の翻刻を含め石碑の素材・方寸など詳細を記している。以前は輝緑岩製とされていた石碑の素材について再調査をして、細粒石灰岩と改めている。
『刻まれた歴史 沖縄の石碑と拓本』(沖縄県立博物館 1996年刊)
『定本 琉球国由来記』(外間守善 波照間永吉 編著 角川書店 1997年)
『琉球国旧記』(原田禹雄 訳注 榕樹書林 2005年)
『資料に見る沖縄の歴史』(沖縄県公文書館・編 沖縄県 2002年)
『書の総合事典』(柏書房 2010年刊) ※この石碑について記してはいないが、書体を調査検討する上で参考になる事典。

(調査ノート)
・『安国山樹華木之記』文章内容(※『石碑復元計画調査報告書』(那覇市 2004年刊)による。■は判読不明文字。カギ括弧は改行部分を示す。旧字体は一部、改訂してある。)
○(上部 題名)「安国「山樹「華木「之記 
○(本文)「安国山樹華木之記「琉球為国分三中山都其中焉俗尚惇朴重信義自漢唐迄今「中国■■■■貢方物航海不絶「大明皇帝嘉其忠勤「特賜衣冠印章宴賓使者■於諸蕃永楽丁酉其国相懐機奉「王命朝于「天京観中国礼楽文物之盛覧名山大山之莊使還楽歳之豊悦民之和即王「城外安国「山増而高鑿池于北築台?于南以為政暇游息之所山則植以松柏槭「?■■花「果薬木水則被之美■萋茨之属猶以為未慊観望於是■求諸国奇花芳「卉嘉果名「木益樹■■間沃壌之培膏雨之潤積以歳月欣然而栄欝然而茂緑陰綾「漣紅紫間「錯錦繍張而駭目也芳沢凝萃香気芬馥蘭?飄而籠人也■■禽鳥之■「集■■■「羽■
■其鳴■相奏而笙簀庁也群魚之游泳■?■■■■掉尾三尺■「而金■■「也其或■日弄晴雨■午清月露■霽夕之光彩微霜凄絶旦之寒色四時「南陽明晦「以■之■同■■物之趣亦不可得而窮也嘉賓勝集国人是従■臻激越「■■■昔「宴酣■■■■■■■■各適其適■■其衆胥民先志久等日吾忝承先「世遺緖■「相国政夙夜■■■■有■■無徳沢以及民是皆遭遇「太平之世上述「聖天子声教之綸■■「国君民治之寛■■■■■上下相安■無事而■種蒔花果以暇日与国「之人士遊「覧宴集楽■茲者其文可■朗然而地■日益以新花木日益以茂莊者有「時而舞老「者有時而歌往者過則来者無窮■為之紀■後之登臨覧物以宴遊者孰「知樹芸之「姶於吾也余盍為吾来申■名士之文刻石■文後宣徳丁未志久等来「旨■物泊■?城述其事以請余謂中山国相忠敬■以事恵愛之以撫民「与国人同「有共■能好尚文雅不忘「上徳国不朽以垂来世不賢而能之乎是可嘉也乃為之書「宣徳二年歳次丁未八月既望安陽澹菴倪寅記○大意:琉球は三つの勢力があったが中山王の第一尚氏王統は継続的に明朝中国に外交使節を送り、明皇帝から衣冠などを賜った。1417年、琉球の国相である懐機(かいき)は尚巴志の命を受けて中国へ外交使節として渡り、中国の礼儀作法や文化を学んだ。帰国した懐機は国をよく治めるために王城である首里城とその周辺を(風水思想に従って)整備した。安国山の北に池(龍潭)を造り、眺めのよい築山を設け、王城の人々の休息の場所とした。山には松柏や果樹を植えた。木々は豊かに茂り美しい彩りのある森となり、人々はそこに憩い、宴を愉しみ、まことに君臣、人民が一体となる王城としてよき国の中心となった。このありさまを記念の石碑に刻むべくこの文章を作った。宣徳二年(1427)八月 安陽の澹菴が記す。
・現存最古で文献資料上も最古であるからといって「歴史上最古であった」ということではないが、琉球における文字資料、書文化の最も貴重な資料の一つ。
・久場政用による琉球王国時代の石碑類の拓本の多くを東恩納寛惇が所蔵していた。これらが現在は沖縄県立図書館に所蔵されている。原本ではうかがえない石碑類の刻線や文字を判読するための資料的価値、拓本でこそ味わえる美術的価値などの十分な評価・活用が今後も望まれる。
しばらくお待ちください