久茂地村屋敷図 [写] (くもじむらやしきず)

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概要・解説文

『久茂地村屋敷図』解説

 

 現在の那覇市久茂地(くもじ)地区周辺(=久茂地川の両岸地域)を描いたこの絵地図は、琉球王府の最高機関である評定所(ひょうじょうじょ)が管理していたとされるものです。あとで詳しくみるように、図中の書き入れから、この図は、1735年に作成された原図の1741年改訂版とみられています。

 

  この絵地図を詳しくみると、各区画の面積、四方の長さ、住人名、出身村(どこから移転したか)などの情報が一軒、一軒、詳しく描かれています。また、区画の形状まで詳しく絵地図を作成するのは中国や当時の日本には無い琉球王国の特徴とされます。

 

 こうした絵地図を含む評定所の文書は琉球史を知る上で重要な資料ですが、残念ながら、まとまった形では、1821年以降の文書しか残されていません。そうした意味でもこの絵地図はとても貴重なのです。

 また久茂地地区の当時の様子をうかがう貴重な資料でもあります。

 一般にこの絵地図は区画変更に際して、「嘉手納にや」という人に交付された副本で、同内容の図が評定所にも保管された、と見られています。

 

 「久茂地」という地名は、元々、「普門寺(ふもんじ)」から転じたものです。普門寺の域内に久米村をはじめ周辺の村々から多くの人々が移住するようになった結果、1667年、正式に「久米村(中国からの渡来人が作った村)」の分村となり、さらに1735年に普門寺村は久茂地村と改称されたようです。このことは琉球王国の正史(せいし=公式の歴史書)の一つである『球陽(きゅうよう)』という本に出ています。

 こうした史実は、近代沖縄学の創始者の一人とされる東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)の『南島風土記(なんとう・ふどき)』(1950年)によって明らかになりました。『南島風土記』にはこの絵地図が掲載されていませんが、この図にふれながら「久茂地村」について解説しています。

 なるほど絵地図の下辺(北側)には「普門寺村前大道筋」とあり、また各屋敷居住者の出身村として「久米村」「西村」「東村」などの書き入れも見えます。また、「屋敷 百六十九」という書き入れも見えます。

 

 この絵地図は上記のように沖縄、那覇の歴史資料という意味でも重要ですが、近代沖縄を代表する歴史学者が収集し、資料として『南島風土記』に活用した一次資料という意味でも大きな価値を持っています。こうした資料の地道な収集によって琉球沖縄の歴史が明らかにされてきたのです。

 
(鶴田大)

詳細解説文

『久茂地村屋敷図』解説(詳細版)

 

 現在の那覇市久茂地(くもじ)地区周辺(=久茂地川の両岸地域)を描いたこの絵地図は、琉球王府の最高機関である評定所(ひょうじょうじょ)が管理していたとされるものです。あとで詳しくみるように、図中の書き入れから、この図は、1735年に作成された原図の1741年改訂版とみられています。

 

  この絵地図を詳しくみると、各区画の面積、四方の長さ、住人名、出身村(どこから移転したか)などの情報が一軒、一軒、詳しく描かれています。このように区画の形状まで詳しく絵地図を作成するのは中国や当時の日本には無い琉球王国の特徴とされます。

 こうした絵地図を含む評定所の文書は琉球史を知る上で重要な資料ですが、残念ながら、まとまった形では、1821年以降の文書しか残されていません。そうした意味でもこの絵地図はとても貴重なのです。

 また久茂地地区の当時の様子をうかがう貴重な資料でもあります。

 

 この絵地図の書き込みによると、「この図は、雍正(ようせい)十三年二月に作成されたもので、今後、評定所が管理する。」という意味のことが画面右下にあり、責任者の「米須親雲上(こめす・ぺーちん)」の名前もみえます。雍正十三年というのは、当時琉球で使用されていた中国の年号で、1735年に当たります。

 また画面中央上辺の書き込みをみると「酉(とり)年の八月に「嘉手納(かでな)にや」という人の屋敷地が区画変更されたので朱線で修正しておく。」として担当者の「恩河親雲上(おんが・ぺーちん)」「奥平親方(おくだいら・うぇーかた)」の名が記されています。1735年に近い酉年は1741年ですから、この図は、原図を元にこのとき修正されたものと考えられています。

 

  一般にこの絵地図は区画変更に際して、「嘉手納にや」(「にや」は仁屋などの文字が当てられ、下級士族や地方役人などを指す名称。)という人に交付された副本で、同内容の図が評定所にも保管された、と見られています。現在も土地の管理・手続きはなかなか込み入ったものですが、区画変更などがある毎に、このような手書きの絵地図を作成していたというのであれば、何とも手間のかかる仕事だったことでしょう。

 

 「久茂地」という地名は、元々、「普門寺(ふもんじ)」から転じたものです。普門寺の域内に久米村をはじめ周辺の村々から多くの人々が移住するようになった結果、1667年、正式に「久米村(中国からの渡来人が作った村)」の分村となり、さらに1735年に普門寺村は久茂地村と改称されたようです。このことは琉球王国の正史(せいし=公式の歴史書)の一つである『球陽(きゅうよう)』という本の「尚質王二十年(=1667年)」の項に出ています。(1667年の項目に、1735年のことまで記述されているのは、この本が古い資料などを元にして、1743年から執筆編集されたからです。)」

 こうした史実は、近代沖縄学の創始者の一人とされる東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)の『南島風土記』(1950年)によって明らかになりました。『南島風土記』にはこの絵地図が掲載されていませんが、この図にふれながら「久茂地村」について解説しています。そこでは、屋敷の総数は百六十九で、久米村を中心にいわゆる那覇四町(なは・ゆまち=西・東・泉崎・若狭の各町のこと。 ※当時はそれぞれ「村」)からの移住者が多い、と述べられています。 なるほど絵地図の下辺(北側)には「普門寺村前大道筋」とあり、また各屋敷居住者の出身村として「久米村」「西村」「東村」などの書き入れも見えます。また、「屋敷 百六十九」という書き入れも見えます。

 この絵地図は上記のように沖縄、那覇の歴史資料という意味でも重要ですが、近代沖縄を代表する歴史学者が収集し、資料として『南島風土記』に活用した一次資料という意味でも大きな価値を持っています。こうした資料の地道な収集によって琉球沖縄の歴史が明らかにされてきたのです。

 
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『琉球国絵図資料集』(第1~3集 沖縄県教育委員会 1992~1994年)
※第三集にこの図の詳しい解説あり。
『沖縄県史 各論編 第4巻 近世』(沖縄県教育委員会 2005年)
『南島風土記』(東恩納寛惇著 1950年刊)※『東恩納寛惇全集7』に収録。
『球陽』(球陽研究会編 角川書店 1982年刊) 
※「尚質王」二十年に「久茂地邑(むら)を創建す」の記事あり。

(調査ノート)
・書誌データ「琉球王府評定所 編 雍正13(1735) 一枚」
・巻子本一巻。
・『琉球王府評定所文書』(浦添市刊)→全十八巻。道光年間(一八二一年~)以降の文書集成であり、本図の時代の評定所文書は無い模様。
・本図の右下の書き込み近くにある朱印は当時のものではなく旧蔵者で近代沖縄を代表する歴史学者・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)のもの。「虬洲書屋(きゅうしゅう・しょおく)蔵」とあり、この「虬洲(きゅうしゅう)」は東恩納寛惇の雅号(がごう=ペンネーム)。
・東恩納寛惇『南島風土記』の久茂地村の項(1974年 第三版p234)に本図に関わるとみられる記述あり。
「久茂地(・・・)久茂地の地名は普門寺から出たもので(・・・)寛文七年(*1667)に城間親方(紫金大夫金正春)が官許を受けて開拓し、久米村の分村とした、(*以上、『球陽』より。・・・)城間親方がこの地を開拓してから、約七十年経って、久茂地と改称された頃の屋敷図に依ると屋敷の総数が百六十九ある。これは那覇四町(西・東・泉崎・若狭)から、移住したもので、二百坪内外を一屋敷として、それに何某何某と云う風に、記入されている。(・・・)この屋敷図は、前にも云うた通り、享保廿年の調製であるが(・・・)」
→一六六七年の70年後は一七三七年だから本図の年記である雍正13(1735)とほぼ一致する。また享保廿年は一七三五年である。軒数「一六九」という書き入れもある。従って本図が『南島風土記』久茂地の項に資料として取り扱われた「久茂地と改称された頃の屋敷図」に当たるとみられる。
・『南島風土記』(一九五〇年初版)は文献資料・図画資料・聞き取り等、あらゆる手法を駆使して沖縄中の地域の詳細な歴史(地誌)を解き明かした「沖縄学」の古典であるが、本図のような資料の地道な収集がこうした名著を生み出したのであろう。
・普門寺は一七〇〇年代初めには廃寺となったか移転したかとみられている。
・書き込み「嘉手納にや」の「にや」は、通常「仁屋」という漢字が当てられ、新参士族や地方役人などの意味(『琉球古語辞典』等参照)。人名をあいまいに表現する際に使われる某(=ぼう、なにがし)などに近い。「琉球人行列図」(デジタル書庫貴重資料に多数掲載あり)において、従者らの氏名表記などに多く見られる。
 
(鶴田大)
しばらくお待ちください