山静日長 (やましずかにしてひながし)

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概要・解説文

(川田)水軒(すいけん)筆『山静日長(やま・しずかにして・ひ・ながし)』解説  

 

 「山静日長」は山の中の別荘(=書斎)で静かにゆったりと時間が流れる様子を表現したことばで、古くから漢詩に使われてきました。いそがしい日常に追われる文人(文化人)らの理想を示すことばです。この書は1930年春のものだということが「庚午(かのえ・うし)春日」という記述からわかります。

 この書を書いたのは、近代日本の教育制度の整備に一生を懸けた高知県出身の川田正澂(かわだ・まさずみ 1864-1935)で、「水軒」というのは雅号(がごう 文学や書にたずさわる際のペンネーム)です。旧制府立高等学校(現・首都大学東京)の創設に尽力し、初代校長を務めた人物として知られます。

 この書の旧蔵者である東恩納寛惇(1882-1963)は府立高等学校の教授を務めましたから、晩年の水軒からこの書を直接贈られたとも考えられます。川田は教育行政の専門家であり、寛惇は歴史研究者でしたから、専門分野は異なります。しかし二人とも目の前に山積する課題をこなして近代日本の教育文化に尽力した仕事仲間でしたから、同志という意識もあったのではないでしょうか。

 

 川田が贈ったとみられる「山静日長」は仕事熱心な寛惇の慌ただしい生活と全く逆の境地で、その意味でこの書は何だか皮肉のようですが、そこには慌ただしい生活にあっても悠然とした心持ちや大きな視野を互いに忘れないようにしよう、という川田の思いが込められていたのでしょう。

 
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『図説 教育人物事典 日本教育史のなかの教育者群像』(全三冊 ぎょうせい 1984年)など。

(調査ノート)
・主要な美術家人名辞典に水軒号不見。
・落款の朱方印に「川田正澂(かわだ・まさずみ)とあり本名が知られる。
・雅号(ペンネーム)は普段の立場(家柄、職業など)を超えて文化的交流、表現活動をするために名乗るものなので、姓(苗字)と繋げて記すのは本来の意味から外れる。このため、姓はカッコ内にのみ記す。
・「庚午春日」という記述から1930年(昭和5年)の春に書かれたことがわかる。
・川田正澂は土佐出身の教育者で、自身が士族出身だったこともあり、大正年間に視察したイギリスのパブリックスクールに感銘を受け、ある種のエリート教育を目指したとされる。しかし、イギリスのパブリックスクールは大英帝国の経済的豊かさを背景に、英国王室、大富豪の寄付金によって運営が行われていて、日本で同様の教育制度を形成することは不可能であった。
・日本独自の教育制度を模索した川田は、公立学校においても一貫教育を提唱したが、あまり受け入れられなかった。
・旧制府立高等学校の初代校長となり、府立中学、府立高校の連携を目指した。
・旧制府立高等学校はその後、東京都立大学~現在の首都大学東京と名称を変えた。
・東恩納寛惇は設立間もない府立高等学校時代~東京都立大学において教員を務めた。
・川田との直接の交流は調査中だが、共に創成期の府立高等学校の教育者として協力した間柄であったとみられる。この作品が寛惇の手許にあるのもこうした川田との関係によるものであろう。
東恩納がどこまで川田の教育理念に共感していたか、協力していたかは不明。要調査。
・「山静日長」は山居閑静の境遇をいうことば。
(大漢和辞典)→[唐庚、酔眠詩「山静似太古。日長如小年。云々」]
(鶴田大)
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