竹図 (たけのず)

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概要・解説文

高人鑑(こう・じんかん)画 『竹図(たけのず)』解説

 

  高人鑑は清朝中国の使者(冊封使節)として1838年に琉球王国を訪れました。この絵はそのときに描かれたものです。当時の外交は主に文化外交でした。中国の使者と琉球の人々は公私にわたる様々な場面で、互いに漢詩や書画、あるいは芸能などを披露・交換して親交を温めました。高人鑑も中国王府の文化部門である翰林院(かんりんいん)所属の文人です。画面にある自身の詩には「神龍はなかなか全貌を現さないが美しくうねる尾を見せることもあるという。私も神龍の尾のように竹を描いてみたがなるほど竹のほんの一部だけでも美しい。」とあります。ユーモラスな「自画自賛」ですが、その通り、しなやかな竹の頂部らしき部分のみが活き活きと描かれています。高人鑑はまた、首里城・瑞泉門の水流(龍樋)を讃えて「飛泉漱玉(ひせん、ぎょくをそそぐ)」と詠じ、その書が石碑文として門の横に建てられたことでも有名です。(石碑は戦災で破壊されましたが幸いに真っ二つに割れた石が付近から発見され、現在も県立博物館に収蔵されています。)

 
(鶴田大)

詳細解説文

高人鑑(こう・じんかん) 画 『竹図(たけのず)』解説(詳細版)

 

 この絵は中国と沖縄の長い文化交流の歴史の一端を示す貴重な資料です。高人鑑(こうじんかん)は中国(清)の役人で、中国皇帝の使者(冊封使節・さくほうしせつ)として琉球に滞在していた時にこの絵を描きました。このことは画面にある「道光戊戌長夏(どうこうぼじゅつちょうか)」(=1838年6月)という記録と、当時の琉球王府の文書(『球陽』)などを付き合わせるとわかります。中国からの使者は数多くの書を琉球に残しましたが、絵画はほとんど伝わっていません。
 高は、尚育王が王位に就いたことを正式に認める(祝う)外交官の一人(冊封副使)として来琉しました。当時の外交は主に文化外交でした。様々なイベントがあり、互いに漢詩や書、あるいは芸能などを披露して親交を温めました。高人鑑も中国王府の文書や歴史書を作成する翰林院(かんりんいん)の代表的な文人です。1663年までは主に軍事部門(兵科)の役人が琉球に派遣されていたことが記録からわかっていますから、1600年代後半(1683年に尚貞王の冊封使が来琉。)~高人鑑の時代は東アジアが比較的平和だったといえるのでしょう。

 

 画面にある漢文は絵に合わせて自身が作った詩(自画賛=じがさん)です。内容はこの墨竹図を描いたいきさつで、「神龍は雲の中から顔を現すことがあっても中々、その尾を見せることがないが、尾を現すとその姿はまことに力強く神威に充ちているという。私もいま、神龍の尾の雰囲気を念頭に竹を描いてみよう。風にしなる斑(まだら)模様の竹はその一端を垣間見るだけでも、神龍の尾のように綾のある美しい歌を奏でているようではないか。」というほどのもの。なるほど、竹の絵は、神龍の歌(詩)に習って、(風圧を受けて下方へしなる)竹の頂部らしき部分のみを、まるで神龍の尾のように描き、竹全体を描いていません。しなる竹の先(幹の先と葉の様子)を神龍の尾に見立てた趣向(しゅこう)です。竹の幹の淡墨と葉の濃墨の色合いが素材(竹)に奥行きを与えています。淡墨の幹はゆっくりした線ながら力強く、強靱な竹の雰囲気をよく映しています。
 自分の絵について述べた漢詩が少しの謙遜もなく、堂々と絵をほめ讃えているのはいわゆる「自画自賛(じがじさん)で一種のユーモアでしょう。「竹枝」には男女の情事や土地の風俗を歌う漢詩の一種という意味もありますから、さらに含みがあるかもしれません。
 東アジアでは、竹は古くから「四君子(しくんし)」、 つまりすぐれた人格の象徴である四種類の植物(蘭、竹、梅、菊 )の一つとして詩文や書画の題材に取り上げられ、各時代に画家や文人らによって様々な描き方が工夫されてきました。

 

 この絵がどういういきさつで描かれたのか、詳しいことは不明ですが、琉球滞在中の絵ですから、おそらく高人鑑が琉球の文人に贈り、それが人の手から手へと渡り、沖縄学のパイオニアの一人である東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)の文庫に入ったのでしょう。
 琉球王府の正史『球陽』や歴代の冊封使録(冊封使、冊封副使らの紀行文)などを詳しく読んでみると当時の様子が伝わってくることでしょう。

  

 高人鑑は琉球沖縄に伝世したとみられる多くの書を残しているほか、首里城・瑞泉門の水流(龍樋)を讃えて「飛泉漱玉(ひせん、ぎょくをそそぐ)」と詠じ、その書が石碑文として門の横に建てられたことでも有名です(石碑は戦災で破壊されましたが幸いに真っ二つに割れた石が付近から発見され、現在も県立博物館に収蔵されています。)。多くの冊封使が首里城をはじめ琉球各地で名所などを讃えて詠じた詩句は石碑となりそれぞれの場所に建てられており、そのいくらかは昔からの場所にあります。保管のために県立博物館などに収蔵されたものもあり、また多くの拓本が県立図書館(特に東恩納寛惇文庫)などに保管されています。

 

(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(主要参考文献)
『沖縄大百科事典』(1983年)※中巻の「高人鑑」、「冊封使(さっぽうし)」の項。
『未公開作品による琉球王朝の書画』(1992年)
『冊封使録から琉球』(2000年)
『刻まれた歴史 沖縄の石碑と拓本』(1993年)

(調査ノート)
・東恩納寛惇文庫。
・高人鑑(こうじんかん)筆による墨竹図。紙本墨画。軸装・一幅。自画賛あり。
・印章は「高人鑑」、「螺舟」、「披一品衣」の三顆(さんか 朱方印=しゅほういん)。
・画賛(翻刻)「神龍見首不見尾。偶出之而露「奇偉。我今仿之写竹枝。一斑已「足歌有斐。」
年記落款「道光戊戌長夏螺舟高人鑑 □□(朱方印 二顆)」
・高人鑑は尚育王の冊封副使として1838年に来琉。その当時の官位は翰林院編修。浙江省出身で生没年未詳。
・高人鑑自身による七言絶句あり。内容はこの墨竹図を描いたいきさつで、「神龍見首不見尾」(神妙なるものは現れてはいつの間にか消えてしまい捉えがたいことのたとえ)という、しばしば使用される慣用句を引用して作詩している。大意は「神龍は雲の中から顔を現すことがあっても中々、その尾を見せることがないが、尾を現すとその姿はまことに力強く神威に充ちているという。私もいま、神龍の尾の雰囲気を念頭に竹を描いてみよう。風にしなる斑(まだら)模様の竹はその一端を垣間見るだけでも、神龍の尾のように綾のある美しい歌を奏でているようではないか。」というほどのもの。「一斑」は一部分という意味と斑竹の斑模様の一部という意味の両方を掛けている。
・「神龍、首(こうべ)を見せて尾を見せず。たまたまこれを出して奇偉を露わす。我、今、これに倣い竹枝を写さん。一斑、すでに有斐を歌うに足れり。」
・竹の絵は、神龍の歌(詩)に習って、(雪や風の圧力を受けて下方へしなる)竹の頂部のみを、まるで雲間にうねる神龍の尾のように描き、竹全体を描いていない。しなる竹の先(幹の先と葉の様子)を神龍の尾に見立てた趣向。竹の幹の淡墨と葉の濃墨の色合いが素材(竹)に奥行きを与えている。淡墨の幹はゆっくりした線ながら力強く、強靱な竹の雰囲気をよく映している。
・いわゆる「自画自賛」で、自分の絵について少しの謙遜もなく、堂々とほめ讃えているのは一種のユーモアであろう。
・詩文中の「竹枝」という語には、男女の情事や土地の風俗を歌う漢詩の一種(一形体)という意味もある(漢和辞典等参照)。詩歌は一般に限られた文字数の中で意味を重層させものであり、座興や琉球の土地をほめるような含みも考えられる。
・高人鑑の書画は『未公開作品による 琉球王朝の書画』等にもあり。
・年記落款は「道光戊戌長夏 螺舟 高人鑑」とあり、1838年(来琉の年)の作と知られる。尚育王の冊封副使として同年五月九日~十月二十日琉球に滞在していたので琉球滞在中の作品。(※旧暦の夏は四~六月。長夏は旧暦の六月の別名。)
・尚育王の冊封使は道光18年(1838年)、正使の林鴻年(翰林院修撰)、副使・高人鑑(翰林院編集)。『球陽』、『使琉球録』(林鴻年編)参照。
 ※翰林院(かんりんいん)とは中国王府の文書・歴史書などを作る部門。冊封使も古い時代には兵科(軍事部門)から選ばれたが、1683年の尚貞王の冊封使からは、文化部門である翰林院から選ばれるようになった。戦乱の時代から平和(文化)外交の時代へと変化していることが窺える。
・歴代冊封使については『沖縄大百科事典』の「冊封使(さっぽうし)」項に一覧表あり。


 

(鶴田大)
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