瓊河発棹 (けいがはっとう)

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『瓊河発棹(けいが・はっとう)』程順則(てい・じゅんそく)作・書 解説

 琉球を代表する政治家・文人である程順則(1663~1735)が、自身の作った漢詩文を大書(たいしょ)した作品です。琉球王国を通して最高の漢詩集の一つとされる順則の個人漢詩集『雪堂燕游草(せつどう・えんゆうそう)』(1698年刊)の中の一首を書いたこの書は、その詩(=「瓊河発棹」)が『雪堂燕游草』冒頭の最も有名な詩であるという意味でも、作者の自筆本という意味でもかけがえのない価値を持っています。詩文を書いたあとに「癸丑(みずのと・うし) 中山(ちゅうざん) 七十一叟(そう) 程順則 書」とあります。これは「1733年、琉球王国の71歳の老人である程順則が書いた」という意味です。『雪堂燕游草』は順則が1696年に外交使節として中国を訪れた際の詩文をまとめたものですから、作詩から30年以上を経た晩年の順則の書とわかります。

 瓊河とは琉球の外交使節・留学生らが中国へ渡航する際に中国の窓口となる福州(=現在の福建省福州市)にある河です。無事、福州に着いた彼らは福州の琉球館(りゅうきゅうかん)で入国の手続きをして一休みしたあと、まづ最初にこの河をさかのぼり、さらに陸路を延々と中国の都である北京へ向かうのです。「瓊河発棹」とは瓊河をさかのぼる船の棹(さお)を動かし、都へ旅立つ、という意味です。『雪堂燕游草』の雪堂とは順則の雅号(がごう≒ペンネーム)で、燕游とは燕京(えんきょう=都である北京の雅名(がめい))へ旅する、という意味です。中国を訪れた多くの琉球の人々が瓊河から燕京を目指す際に自作の「瓊河発棹」の詩を詠んできました。
 沖縄では今も、人があの世へ逝くことを「唐旅(とうたび)」と呼ぶことが伝わっています。唐(とう、から)は王朝が変わっても伝統的に中国の呼称です。琉球王国当時、中国へ行くことは命がけのことで、多くの人が琉球へ帰ることなく旅中に命を落としました。琉球・福州間の航海には海賊船や荒天(こうてん)に襲われる危険があり、さらに福州・燕京間の旅は山賊や様々な自然の脅威にさいなまれる長い旅路でした。順則の父も外交使節として訪れた中国で病いにより客死(かくし)した一人です。
 順則らの「瓊河発棹」詩には、無事に往路(おうろ)の航海を終えた安堵(あんど)や、遙かな燕京へと山や川を越えてゆく旅への思いに揺れ動く途轍(とてつ)もない心境が響いているのです。

 順則の「瓊河発棹」詩の内容は「皇帝の居る北の都をさして、今、瓊河を船でさかのぼっていく。船は旅の不安を打ち消すような色とりどりの文様や絵で飾られている。都のある北を望むと雨や露で前方がかすんでおり、長い旅路を予感させる。ここから帆を上げて風を送り燕京へと旅するのだ。私たちは船ばたを叩きながら、河のほとりで見送る人々と声を合わせて太平歌(たいへいか)を歌う」というような内容です。現在でも琉球王国の人々の足跡を辿ろうと福州を訪れる多くの人々が、この程順則の「瓊河発棹」詩を口ずさむのです。

(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1981年刊)※項目「程順則」「雪堂燕游草」ほか参照。
『校訂本 中山詩文集』(上里賢一 編 九州大学出版会 1998年刊)
 ※『中山詩文集(ちゅうざん・しぶんしゅう)』は程順則が編さんした漢詩集で琉球の文人らの漢詩を集成している。自身の『雪堂燕游草』も収録している。
『琉球漢詩の旅』(上里賢一 選・訳 茅原南龍 書 琉球新報社 2001年刊)
『閩江のほとりで』(上里賢一  沖縄タイムス社・タイムス選書Ⅱ 2001年刊)
ほか

(調査ノート)
○程順則は同時代の中国を代表する文人で外交使節として琉球を訪れた徐葆光(じょ・ほこう)との親交や、江戸時代を通して最大の政治家・文人と言われる近衞家熙(このえ・いえひろ)との親交で知られ、また、『六諭衍義(りくゆ・えんぎ=中国・明朝の初代皇帝の六つの道徳的教訓を解説した本)』を中国から当時の「日本」へ伝え、その和訳本が江戸時代の寺子屋(てらこや≒私塾)の教科書として広く普及したことでも知られます。
○『雪堂燕游草』は当時の「日本」でもよく読まれ、薩摩藩の公式の絵師で江戸時代を通じても著名な画家である木村探元(きむら・たんげん)も「雪堂燕游図」という題名で絵を描いたことが知られています。(※この絵は、現在は所在不明となっています。)
○『雪堂燕游草』には順則が燕京からの帰路に、父・泰祚(たいそ)の墓参りをした際の詩「姑蘇省墓(こそせいぼ)」も掲載されています。泰祚は1673年に外交使節として北京へ行きましたが、帰路、蘇州において病没しました。

(鶴田大)
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