道光福建布政司咨 (どうこうふっけんふせいしし)

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概要・解説文

『福建布政司咨(ふっけん・ふせいし・し)』(道光二十八年)  解説

 

 「咨(し)」とは、咨文(しぶん)のことで、中国で同じ立場・階級に属する機関・役職同士でやりとりされた文書のことです。「福建布政司」とは、福建省の官庁のことです。福建省は琉球王国が中国(清朝、明朝)と行き来した際の窓口で、中国・琉球間を往来する船も福建省の福州から出入りしていました。ですから福建省の長官と琉球国王との間ではさかんに咨文のやりとりが行われていました。

 咨文の内容を筆写したものは「歴代宝案(れきだいほうあん=琉球王府の外交文書の写しをまとめた文書集)」に多く掲載されていますが、この咨文は「原本」という意味で非常に貴重な文化財です。料紙(りょうし=用紙)・書・文体・朱印など、全体として美術品ともいえるものです。

 

  この咨文が書かれた時期は、末尾の記述から道光二十八年(1848)四月とわかります。前年の1847年9月25日に琉球国王から宛てられた咨文に対する返信としての咨文(≒精確には咨覆・しふく)です。

 

 この咨文は原本としてかけがえの無い価値を持つ一方で、文面内容も当時の時代風景を写す貴重なものです。当時、琉球王国は頻繁にやって来るイギリス船やフランス船から通商・開国・布教を激しく迫られている時期でした。やがて米国からペリー艦隊がやってくる(1852年)前兆期というわけですが、この咨文にはまさにその問題について書かれているのです。

 文中には「咈國船隻(ふつこく・せんせき=フランス船)」「英國醫士伯徳令(えいこく・いし・はくとくれい=イギリス人医師ベッテルハイム)」などのイギリス・フランスに関する言葉がたくさん出ています。

 

  琉球王国の正史『球陽(きゅうよう)』や、『島津家文書』中の『琉球外国関係文書』にはこの時期の文書のやりとりが詳細に掲載されています。しかしこの文書については掲載がありませんから、じっさいにはもっとたくさんの文書のやりとりがあったものと考えられます。

 

  ところでこうした文書に「咨」という言葉が使われているということは、福建省の長官と琉球国王は中国では同等の位(くらい) とされていたことを意味します。当時の東アジアでは中国が各国を従える宗主国(そうしゅこく)という体制が出来ていたのです。

 

 こうした咨文の多くの内容は先述した「歴代宝案(れきだい・ほうあん)」に写しが残されているほか、中国の文書館(檔案館=とうあんかん)にも咨文を含め琉球に関する文書が多く収蔵されています。現在、これら膨大な文書の調査・研究が進められているので、こうした方面からも琉球王国の知られていなかった顔が見えてくることでしょう。

 
(鶴田大)

詳細解説文

『福建布政司咨(ふっけん・ふせいし・し)』(道光二十八年)  解説(詳細版)

 

 「咨(し)」とは、咨文(しぶん)のことで、中国で同じ立場・階級に属する機関・役職同士でやりとりされた文書のことです。「福建布政司」とは、福建省の官庁のことです。福建省は琉球王国が中国(清朝、明朝)と行き来した際の窓口で、中国・琉球間を往来する船も福建省の福州から出入りしていました。ですから福建省の長官と琉球国王との間ではさかんに咨文のやりとりが行われていました。

 咨文の内容を筆写したものは「歴代宝案(れきだいほうあん=琉球王府の外交文書の写しをまとめた文書集)」に多く掲載されていますが、この咨文は「原本」という意味で非常に貴重な文化財です。料紙(りょうし=用紙)・書・文体・朱印など、全体として美術品ともいえるものです。

 

 この咨文が書かれた時期は、末尾に「道光(どうこう)弐拾捌(にじゅうはち)年肆(し)月」にあるので咨文の日付は道光二十八年(1848年)四月とわかります。(「捌(はち)」は八の意味、肆(し)は四の意味です。)

 前年の1847年9月25日に琉球国王から宛てられた咨文に対する返信としての咨文(≒精確には咨覆・しふく)です。

 この咨文は原本としてかけがえの無い価値を持つ一方で、文面内容も当時の時代風景を写す貴重なものです。

 当時、琉球王国は頻繁にやって来るイギリス船やフランス船から通商・開国・布教を激しく迫られている時期でした。やがて米国からペリー艦隊がやってくる(1852年)前兆期というわけですが、この咨文にはまさにその問題について書かれているのです。しかもこの咨文の日付の頃は、尚育王が若くして亡くなったあと、琉球最後の国王となる幼い尚泰王が正式に王位に就く直前という正に混乱期でした。

 当時、琉球王府は山積する問題について薩摩藩や江戸幕府と対応策を検討し、一方で清朝(しんちょう)中国の支援を求め、頻繁に情報交換をしていました。

 この咨文はそうした琉球王国からの相談に対して清朝皇帝の代理として福建省長官が返信をしたもので、英仏の要求を拒否する琉球の方針を支持しながらも、効果的な打開案を見いだせない清朝のあいまいな態度がうかがわれるものです。文中には「咈國船隻(ふつこく・せんせき=フランス船)」「英國醫士伯徳令(えいこく・いし・はくとくれい=イギリス人医師ベッテルハイム)」などのイギリス・フランスに関する言葉がたくさん出ています。

 

 文面には差出人である当時の福建省長官の名前も、宛先である琉球国王の名前も書かれていません。宛名は「琉球国王 尚」とのみあります(これは通常の書式です)。福建省長官が誰であったかは調査により明らかになる可能性が高いですが、受信者である「琉球国王」が誰かについてはやや複雑な問題があります。ちょうど尚育王が亡くなって、次の尚泰王が正式に国王となる間の時期に当たるからです。(この咨文以前に琉球から送った咨文の日付の直前(1847年9月17日)に琉球・尚育王(しょういくおう)が亡くなっていて、福建省長官からの咨文の日付(1848年4月)の翌月5月8日になってようやく琉球最後の王である尚泰王(しょうたいおう)が正式に即位(そくい) しています。ですから咨文は、名目的には前代の尚育王に宛てられ、実際の受取人は尚泰王(または「琉球国王子 尚泰」)だったということになります。ただし、当時、尚泰王は6歳ほどですから事務処理は国王を補佐する特別職・国相(こくしょう)である尚元魯(しょう・げんろ=浦添王子朝憙(うらそえ・おうじ・ちょうき)が担当したと考えられます。

 この咨文はそういう時期にやりとりされたものです。また琉球王国の正史『球陽(きゅうよう)』にもこれら咨文のやりとりについてはあまり詳しく見えませんが、『島津家文書』中の『琉球外国関係文書』にはこの時期の文書のやりとりが詳細に掲載されています。この文書については掲載がありませんから、じっさいにはもっとたくさんの文書のやりとりがあったものと考えられます。中国と琉球がやりとりした文書の写しを収集した『歴代宝案』にはこの文書が掲載されていません。(『歴代宝案』は収集できた文書を掲載しているだけで、全ての文書を収集できたわけではないのです。)外国船について相談している文書も少ないようですから、外国船問題は主に薩摩藩~江戸幕府との間で相談されていたようです。

 

  ところでこうした文書に「咨」という言葉が使われているということは、福建省の長官と琉球国王は中国では同等の位(くらい) とされていたことを意味します。当時の東アジアでは中国が各国を従える宗主国(そうしゅこく)という体制が出来ていたのです。

 

  文中に登場する琉球からの使者「貴国使臣 向元模(しょう・げんも)」は、野村親方朝宜(のむら・うぇーかた・ちょうぎ)のことです。このときは中国に居たようですが、2年後の1850年には江戸へ行く琉球使節の副使を勤めています。当時の琉球の士族らは、中国へ日本(大和文化圏)へといそがしく外交に活躍していました。

  こうした咨文の多くの内容は先述した「歴代宝案(れきだい・ほうあん)」に写しが残されているほか、中国の文書館(檔案館=とうあんかん)にも咨文を含め琉球に関する文書が多く収蔵されています。現在、これら膨大な文書の調査・研究が進められているので、こうした方面からも琉球王国の知られていなかった顔が見えてくることでしょう。

 
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『琉球王国評定所文書 』第二巻~四巻(沖縄県教育委員会 1989年~)
『歴代宝案(訳注本)』第13冊(第二集 巻174-189 沖縄県教育委員会 2002年)
『清代中国・琉球関係檔案史料展』(中国第一歴史檔案館・沖縄県公文書館 1995年)
『国子監と琉球人留学生』(首里城公園 1997年)
『資料に見る沖縄の歴史』(沖縄県公文書館 2002年)
『琉球外国関係文書』(東京大学史料編纂所 蔵『島津家文書』中)
※インターネット上に編年目録と各文書の全文の掲載有り。「琉球開国関係文書」で検索。
 ほか

(調査ノート)
・巻子本・一巻。(書誌データでは一鋪=いっしき。地図・旗などを数える単位。)
・書誌データ「平成七年修補 割り印の読み:福建等處承宣布政使司之印」
・「咨(し)」は咨文のこと。対等の立場同士で文書をやりとりする場合に使用する。中国皇帝から臣下らに宛てる文書は詔勅(しょうちょく)、下位の者が上位の者へ送る文書は一般に「奏上文(そうじょうぶん)」などと呼ばれる。
・本文書は道光年間に作成された「咨」。福建省担当の行政官(布政使司=ふせいしし)は琉球国王と同格だったので咨文となっている。
(鶴田大)
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