崇元寺下馬碑(表) [拓本] (そうげんじげばひ おもて)

ヘルプ閉じる

貴重資料ビューワーの操作

操作ボタンの説明

資料のタイプに応じて、表示するボタンの種類が変わります。


ページ切替

資料のページを切り替えます。

先頭のページ/最後のページ、前のページ/次のページ、ページ番号指定
などの基本的なページ切替操作をします。

ページ数表示

ページ切替操作の際に、ビューワー画面の右下に、現在のページ数/総ページ数が表示されます。
一定時間が過ぎると自動的に非表示になります。

ズームボタン 資料画像のズームボタンです。最小サイズ/最大サイズの切替をします。
中央に表示 資料画像をビューワーの中央に再配置します。
スクリーンサイズ切替 資料表示部のサイズを切り替えます。最大サイズの場合、右側の書誌情報エリアが非表示になります。
スケールスライダー マウスドラッグ操作で、資料画像のサイズを無段階調整します。
ページ選択 多数のページを持つ資料に表示されます。一定数ごとにページを切り替えることが出来ます。
翻刻資料を表示 くずし字で書かれた原文を楷書体に置き換えた「翻刻資料」のページを表示します。


マウスの操作について
クリック
  • 資料の前後ページ切替(右クリックは使用しません)
ダブルクリック
  • 単ページ/見開きの表示切替
  • 資料画像サイズの拡大/縮小・段階切替
ドラッグ
  • 資料画像の表示位置移動
  • ダイアログウィンドウの表示位置移動(ダイアログ:このウィンドウなど)
マウスホイール
  • 資料画像サイズの拡大/縮小・段階切替


解説文、その他の詳細情報

解説文などのタブについて
タブの説明
資料によって、解説文の他に詳細な説明を掲載している場合が有ります。表示されるタブの種類は資料ごとに変わります。
資料解説・概要文 貴重資料に関する主な説明・概要文が表示されます。※資料解説の末尾に記載されている氏名は、資料解説の執筆者名です。
詳細解説文 さらに詳しい詳細な説明文、資料に関する情報などが表示されます。
参考文献・調査ノート 資料の解説文作成の際に参考とした資料や、その他の情報が表示されます。


推奨動作環境

  • Internet Explorer 7以上
  • Firefox 3以上
  • Safari 4以上

  • 概要・解説文
  • 参考文献・調査ノート

概要・解説文

崇元寺下馬碑漢文面(そうげんじ・げばひ・かんぶんめん) 拓本(たくほん) 解説

 

 崇元寺は尚王家の代々の位牌(いはい)をまつる歴史ある寺です。ちょうど那覇地区から首里城へと向かう坂下にあり、王族など特別な立場を除く一般士族らはここで馬から下りることになっていました。その決まりを明記したのがこの石碑です。1527年に建造されたこの石碑は同じものが石門の西と東にありましたが、西のものは戦災(1945年)で破壊されてしまいました。この拓本(たくほん)は現存する東の石碑の漢文面を写し取ったものです。
この石碑は両面がそれぞれ漢文と琉文(漢字仮名交じり文=平常語)で刻まれたものです。どちらが表面か解説書によって様々(石碑が移動された形跡があり問題をややこしくしています。)ですが、ここでは漢文面・琉文面という区別を用います。漢字面の読み方も様々ですがここでは「すべて官員人等(かんいんじんら)はここに至りて下馬(げば)すべし」と読んでおきます。表裏・読み方について様々、意見がありますが、共通しているのはこの碑文が龍の文様などの石彫にしても書にしても、琉球文化を代表するすばらしい美術品だという見解です。
ちなみに琉文面は「あんじ(按司)もげす(その家来)もくまにてむま(馬)からおれるべし」というもので「くま(=ここ)」というウチナーグチが堂々と使われています。石碑を含めたオフィシャルの文に漢文と共に堂々と母語(ウチナーグチ)を記すのは琉球文化のユニークな伝統とされています。ヤマト文化圏ではほとんどすべての公文が漢文で書かれていたのです。

 
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『刻まれた歴史 沖縄の石碑と金石文』(沖縄県立博物館 友の会 編 1993年)
『石碑復元計画調査報告書』(那覇市 2004年)
「崇元寺下馬碑について」(東恩納寛惇1938年発表 、収録;『東恩納寛惇全集5』1978年、pp35-45)
「崇元寺下馬碑 中国口語史の視点から」(高津孝 「歴代宝案研究」代3・4号合併号 1993年 に収録)

 

(調査ノート)
・拓本(表面=漢文のみ。)軸装一幅。
・(拓本釈文)「但官員人等至此下馬」(但(すべて、およそ)、官員(かんいん)=按司(あじ)、人=下司(げす)=家来(けらい)等は此( )に至りて下馬(げば)すべし。)
・大意は、「王族など特別な立場の人々を除き、士族とその家来はこの崇元寺(そうげんじ)の門前で馬から下りて、首里城へ向かうこと。」という内容で、王府時代の交通標識である。
・この碑文の裏面には琉文(りゅうぶん。琉球の日常語を漢字仮名交じり文で表記したもの。)で「あんしもけすもくまにてむまからおれるべし」(按司も下司も「くま」=ここで馬から下れるべし)と、表面の漢文と同様の内容が記されている。さらに年記があり「大明嘉靖(かせい)六年(1527年) 丁亥(ひのと・い)七月二十五日」とあり、中国・明代の年号では嘉靖(かせい)六年(=1527年)、丁亥(ひのと・い)の年の七月二十五日にこの碑文が建立されたことを示している。
・東恩納寛惇は「崇元寺下馬碑について」(全集5、pp35-45。)という論文(昭和十三年四月十五日)の中で、この碑文の美術的価値(書とデザイン)について述べるとともに、沖縄に「現存する」漢文・琉文併記の碑文としてこの碑文を含め七点を挙げて、琉文を裏面に書くのはこの崇元寺の碑文だけでありユニークだと評している。またその理由について詳しくその語句を調査して、通常は琉文に漢語訳を付けるのに対しこの碑文においては漢文が先に作られ、その訳文として琉文が付けられたのであろうと推定している。
・広く注目されることだが、このように母語(琉球語)を公式の碑文・文書に用いることは琉球文化の大きな特色といえる。大和文化圏では公式文は漢文のみが通例となっている。

 
(鶴田大)

附録閉じる

閉じる崇元寺下馬碑高解像度の画像を表示(640px × 478px)
那覇市泊・崇元寺跡

しばらくお待ちください