秋の空 (あきのそら)

ヘルプ閉じる

貴重資料ビューワーの操作

操作ボタンの説明

資料のタイプに応じて、表示するボタンの種類が変わります。


ページ切替

資料のページを切り替えます。

先頭のページ/最後のページ、前のページ/次のページ、ページ番号指定
などの基本的なページ切替操作をします。

ページ数表示

ページ切替操作の際に、ビューワー画面の右下に、現在のページ数/総ページ数が表示されます。
一定時間が過ぎると自動的に非表示になります。

ズームボタン 資料画像のズームボタンです。最小サイズ/最大サイズの切替をします。
中央に表示 資料画像をビューワーの中央に再配置します。
スクリーンサイズ切替 資料表示部のサイズを切り替えます。最大サイズの場合、右側の書誌情報エリアが非表示になります。
スケールスライダー マウスドラッグ操作で、資料画像のサイズを無段階調整します。
ページ選択 多数のページを持つ資料に表示されます。一定数ごとにページを切り替えることが出来ます。
翻刻資料を表示 くずし字で書かれた原文を楷書体に置き換えた「翻刻資料」のページを表示します。


マウスの操作について
クリック
  • 資料の前後ページ切替(右クリックは使用しません)
ダブルクリック
  • 単ページ/見開きの表示切替
  • 資料画像サイズの拡大/縮小・段階切替
ドラッグ
  • 資料画像の表示位置移動
  • ダイアログウィンドウの表示位置移動(ダイアログ:このウィンドウなど)
マウスホイール
  • 資料画像サイズの拡大/縮小・段階切替


解説文、その他の詳細情報

解説文などのタブについて
タブの説明
資料によって、解説文の他に詳細な説明を掲載している場合が有ります。表示されるタブの種類は資料ごとに変わります。
資料解説・概要文 貴重資料に関する主な説明・概要文が表示されます。※資料解説の末尾に記載されている氏名は、資料解説の執筆者名です。
詳細解説文 さらに詳しい詳細な説明文、資料に関する情報などが表示されます。
参考文献・調査ノート 資料の解説文作成の際に参考とした資料や、その他の情報が表示されます。


推奨動作環境

  • Internet Explorer 7以上
  • Firefox 3以上
  • Safari 4以上

  • 概要・解説文
  • 詳細解説文
  • 参考文献・調査ノート

概要・解説文

(内藤))鳴雪(めいせつ)自筆 俳句「秋の空」解説


 鳴雪(1847-1926)は松山藩士で、江戸の松山藩邸(はんてい)に生まれ、生涯のほとんどを江戸で過ごしました。元々は漢学者として、明治以降は教育者として活躍しましたが、四十六歳の頃、同藩の後輩、(正岡)子規(しき)に出会い、俳句に目覚めました。後半生は俳句に没頭し、俳人として、また芭蕉研究家として、大成(たいせい)しました。
 ここに書かれている俳句は秋のものさびしい風景や心境を描いたものです。「秋の空 立ち出(いで)て見れば 何もなし」と書かれています。こうした秋の心象風景を歌った俳句に芭蕉の「この道を 行く人なしに 秋の暮れ」がよく知られます。さらに俳句の母体である和歌(わか)をみると鎌倉時代の藤原定家(ふじわらのさだいえ)に「見渡せば 花も紅葉(もみじ)も 無かりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」という作があります。(浦の苫屋とは、草で編んだ海辺の質素な小屋のことです。)
 これらは互いによく似ていますが、伝統的な日本の文学の世界では、似ていることは決して悪いことではありませんでした。むしろ、和歌の世界などでは「本歌取り(ほんか・どり)」と呼んで、敢えて有名な古歌(こか)に似せて歌を作りました。限られた文字数の中で、古歌の描く世界のイメージを呼び込むことで、より豊かな微妙なニュアンスが表現できるという考えがあったからです。
 鳴雪が芭蕉らの作品を潜在的にも感じながらこの俳句を作ったことはおそらく確かでしょう。

 

 また、隠者(いんじゃ=一般世間から距離を置いて、文芸・宗教などの修行に打ち込む人)らしき人を描いた絵と、俳句を書いた書を合わせて見ると、絵と書が一体化していて、画家か書家の作品のようです。このように絵を書と同じような筆線(ひっせん)で描くことや、まるで絵のように自由に崩して書く「散らし書き」の書を一つの紙上に合わせることも江戸時代には一般的な方法でした。

 

 こうしてみると、鳴雪七十歳(数え年。1916年)のこの作品は、大正時代の作品でありながら、まるで江戸時代の書画であるような気がしてきます。旧蔵者の東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん) は鳴雪の作品を他にも持っていて何らかのつながりがあったことがうかがわれます。ちょうど一世代ほど後輩になる寛惇(1882年生まれ)は鳴雪をどのように見ていたのでしょう。

(鶴田大)

詳細解説文

(内藤))鳴雪(めいせつ)自筆 俳句「秋の空」解説(詳細版)


 鳴雪(1847-1926)は松山藩士で、江戸の松山藩邸(はんてい)に生まれ、生涯のほとんどを江戸で過ごしました。元々は漢学者として、明治以降は教育者として活躍しましたが、四十六歳の頃、同藩の後輩、(正岡)子規(しき)に出会い、俳句に目覚めました。後半生は俳句に没頭し、俳人として、また芭蕉研究家として、大成(たいせい)しました。
 俳句の内容や、絵や書の様子をみると、鳴雪は江戸時代の文化を体現する最後の世代の人なのだという印象をつよく受けます。(明治維新の頃、鳴雪はすでに二十歳を過ぎていました。)

 

 ここに書かれている俳句は秋のものさびしい風景や心境を描いたものです。「秋の空 立ち出(いで)て見れば 何もなし」と書かれています。

 

 こうした秋の心象風景を歌った俳句に芭蕉の「この道を 行く人なしに 秋の暮れ」がよく知られます。さらに俳句の母体である和歌(わか)をみると鎌倉時代の藤原定家(ふじわらのさだいえ)に「見渡せば 花も紅葉(もみじ)も 無かりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ」という作があります。(浦の苫屋とは、草で編んだ海辺の質素な小屋のことです。)これらは互いによく似ていますが、伝統的な日本の文学の世界では、似ていることは決して悪いことではありませんでした。むしろ、和歌の世界などでは「本歌取り(ほんか・どり)」と呼んで、敢えて有名な古歌(こか)に似せて歌を作りました。限られた文字数の中で、古歌の描く世界のイメージを呼び込むことで、より豊かな微妙なニュアンスが表現できるという考えがあったからです。
 鳴雪が芭蕉らの作品を潜在的にも感じながらこの俳句を作ったことはおそらく確かでしょう。

 

 また、隠者(いんじゃ=一般世間から距離を置いて、文芸・宗教などの修行に打ち込む人)らしき人を描いた絵と、俳句を書いた書を合わせて見ると、絵と書が一体化していて、画家か書家の作品のようです。このように絵を書と同じような筆線(ひっせん)で描くことや、まるで絵のように自由に崩して書く「散らし書き」の書を一つの紙上に合わせることも江戸時代には一般的な方法でした。

 

 明治以降、近代化の波は文化にも及び、文学と美術は切り離されます。純粋な文学、純粋な美術こそ価値あるものと考えられたからです。「書」と「絵画」も別ジャンルということで別の道を歩むことになります。欧米に無い「書」という文化は美術から除外され、絵画は純粋美術として孤立したオリジナリティーの模索を始めます。そもそも「美術」という言葉自体も1873年(明治6年)パリ万博の際の造語で、それ以前は「書画(しょが)」というのが、美術を示す最も一般的な言葉でした。

 

 こうしてみると、鳴雪七十歳(数え年。1916年)のこの作品は、大正時代の作品でありながら、まるで江戸時代の書画であるような気がしてきます。

 

 旧蔵者の東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん) は鳴雪の作品を他にも持っていて何らかのつながりがあったことがうかがわれます。ちょうど一世代ほど後輩になる寛惇(1882年生まれ)は鳴雪をどのように見ていたのでしょう。寛惇自身も晩年期の随筆で、ときおり「自分が昔を知る最後の世代だ」と漏らしていますから、鳴雪に過ぎ去った時代の面影をなつかしく見ていたのかもしれません。

(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『日本近代文学大事典』(講談社 1977年刊)
『現代俳句集成2』(河出書房新社 1982年刊)
『鳴雪自叙伝』(復刻版  岩波文庫2002年刊)

 

(調査ノート)
・俳句「秋の空 「立ち出(いで)て「見れば「何もなし」「七十 鳴雪」
・印章「鳴雪」
・絵画的な造形。近現代において、書が絵画を不可分であった古代中国の慣習が全く異なる形で復活した流れがあり、そうした流れにある書とみられる。
・鳴雪は、子規の写生句の精神や、さらに芭蕉らに強い影響を受けつつ、自由奔放でありながら、漢詩的な感覚も活かされた独自の句風を打ち立てたとされる。
・絵画的要素と書が中国古代以来、再び異なる形状をとって融合する造形の流れにある書か。
・近世の近衞信尹(『渡唐天神図』など)や、画僧・仙崖などに、同一画面に同様の書風・筆線で書と画を描いたような例があるが、そうした流れを受け継ぐ書風とみられる。

(鶴田大)

しばらくお待ちください