元日や (がんじつや)

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概要・解説文

(内藤)鳴雪(めいせつ)自筆 俳句「元日や」解説

 

  絵画的ともいえる独特の書風ですが、鳴雪(1847-1926)は書家ではなく、漢学者・教育者・俳人として活躍した人です。冒頭の「元日や」などは普通にはほとんど読めないほど独自に崩した造形です。鳴雪は絵心のある人だったのでしょう。

 俳句の内容は「天帝の子のような堂々とした独立峰(ほう)、富士山を眺めるすばらしい元日だ。」というほどの意味でしょう(原文:「元日や 一系の天子 不二の山」)。「七十 鳴雪」と署名があるので、鳴雪が七十歳(数え年=生まれたときに一歳。毎年の元日に一つ歳をとる、むかしの年齢の数え方。)の年、1916年(大正五年)に詠まれ、書かれたものとわかります。当時は天皇崇拝がとても強い頃でしたから、句にある天子はそのまま、天皇の意味を、富士山は日本国の意味を示すものとして詠まれたのでしょう。

 

 実はこの句を刻んだ句碑が故郷・松山の道後(どうご)公園に建てられています。鳴雪は松山藩の若者が東京へ出た際の寄宿舎(きしゅくしゃ)の世話人を務めていた関係もあり、鳴雪を慕う寄宿舎の出身者らが鳴雪の古稀(こき=七十歳の祝い)を記念して石碑を建立したのです。句碑を建てる計画があったからこの句を詠んだのか、あるいは偶然、七十歳の元日に詠んだこの句が石碑を作るきっかけとなったのかは定かでありません。石碑の書はこの作品よりややおとなしく読みやすいものの、全体の字形や、とくに大きな「や」の書き方などはそっくりです。

 この作品の旧蔵者である東恩納寛惇がこの書を所持することになった経緯は不明です。いづれにしても、この書は、石碑建立のために鳴雪がせっせと書いた何枚かの「元日や」の句の書の一つだったのかもしれません。とするとこの書は「ボツ」になった書というわけです。たしかに石碑に採用された文字に比べると、いかにも石碑にしづらい微妙な墨の濃淡やにじみがありますが、書としてはこちらのほうが自由奔放といえるかもしれません。

 鳴雪は俳句を始めたのは意外に遅く、四十六歳になってからのことです。近代俳句の創始者ともいえる同郷(松山)出身の後輩、(正岡)子規(しき)に俳句を学んだのです。後半生の鳴雪は俳句に専念し、俳人として名を成すことになります。

 
(鶴田大)

詳細解説文

内藤)鳴雪(めいせつ)自筆 俳句「元日や」解説 (詳細版)

 

 絵画的ともいえる独特の書風ですが、鳴雪(1847-1926)は書家ではなく、漢学者・教育者・俳人として活躍した人です。冒頭の「元日や」などは普通にはほとんど読めないほど独自に崩した造形です。絵画や書で知られる人物ではないのですが、絵心のある人だったのでしょう。俳句の内容は「天帝の子のような堂々とした独立峰(ほう)、富士山を眺めるすばらしい元日だ。」というほどの意味でしょう(原文:「元日や 一系の天子 不二の山」)。「七十 鳴雪」と署名があるので、鳴雪が七十歳(数え年=生まれたときに一歳。毎年の元日に一つ歳をとる、むかしの年齢の数え方。)の年、1916年(大正五年)に詠まれ書かれたものとわかります。当時は天皇崇拝がとても強い頃でしたから、句にある天子はそのまま、天皇の意味を、富士山は日本国の意味を示すものとして詠まれたのでしょう。

 

 実はこの句を刻んだ句碑が、故郷・松山の道後(どうご)公園に建てられています。鳴雪は松山藩の若者が東京へ出た際の寄宿舎(きしゅくしゃ)の世話人を務めていた関係もあり、鳴雪を慕う寄宿舎の出身者らが鳴雪の古稀(こき=七十歳の祝い)を記念して石碑を建立したのです。(実は、鳴雪は江戸の松山藩屋敷で生まれ、一生のほとんどを江戸~東京ですごしましたから、この故郷での石碑建立には複雑な思いがあったでしょう。とはいえ、うれしかったことに違いはありません。)

 句碑を建てる計画があったからこの句を詠んだのか、あるいは偶然、七十歳の元日に詠んだこの句が石碑を建てるきっかけとなったのかは定かでありません。石碑の書はこの作品よりやや大人しく読みやすいものの、全体の字形や、とくに大きな「や」の書き方などはそっくりです。

 

 この作品の旧蔵者である東恩納寛惇がこの書を所持することになった経緯は不明ですが、おそらく親交の深かった児童文学者、巌谷小波(いわや・さざなみ)が鳴雪の句友(くゆう)だったので、そうしたつながりで鳴雪とも親交があったのかもしれません。いづれにしても、この書は、石碑建立のために鳴雪がせっせと書いた何枚かの「元日や」の句の書の一つだったのかもしれません。とするとこの書は「ボツ」になった書というわけです。たしかに石碑に採用された文字に比べると、いかにも石碑にしづらい微妙な墨の濃淡やにじみがあります。しかし書としてはこちらのほうが自由奔放といえるかもしれません。  

 

 鳴雪が俳句を始めたのは意外に遅く、四十六歳になってからのことです。近代俳句の創始者ともいえる同郷(松山)出身の後輩、(正岡)子規(しき)に俳句を学んだのです。後半生の鳴雪は俳句に専念し、俳人として名を成すことになります。この頃の同郷のつながりというのは今の時代からは考えられないほど強いもので、子規を中心に(高浜)虚子(きょし)、(河東=かわひがし)碧梧桐(へきごどう)、(中村)草田男(くさたお)など、同郷者が互いに刺激しあってそれぞれに大家(たいか)となっていきました。こうした現象は、俳句に限らず、様々な分野において当時の歴史的潮流として生じていたようです。

 
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『日本近代文学大事典』(講談社 1977年刊)
『現代俳句集成2』(河出書房新社 1982年刊)
『鳴雪自叙伝』(復刻版  岩波文庫2002年刊)
松山市観光コンベンション協会ホームページ ほか

(調査ノート)
・俳句「元日や 一系の「天子 不二の山 「七十 「鳴雪 □□(朱方印)」
・印章「素行之印」「南塘」
・絵画的な造形。近現代において、書が絵画を不可分であった古代中国の慣習が全く異なる形で復活した流れがあり、そうした流れにある書とみられる。
・鳴雪は、子規の写生句の精神や、さらに芭蕉らに強い影響を受けつつ、自由奔放でありながら、漢詩的な感覚も活かされた独自の句風を打ち立てたとされる。
 
(鶴田大)
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