首里城図 (しゅりじょうのず)

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概要・解説文

友寄喜恒(ともよせ・きこう)画『首里城図(しゅりじょうのず)』解説


 首里城と那覇港を描く「首里城那覇港図(しゅりじょう・なはこうのず)」は琉球王国時代にいくつも描かれ、現在も多数現存しています。首里城のみを描いた作品、那覇港のみを描いた作品を含め、琉球絵画最大のテーマの一つだったとみられます。王国時代の公的な画家(=絵師・えし)であった喜恒(1845-1885) が明治以降になって首里城のみを描いたこの作品もその系譜に属するものです。  

 

 このような首里城や那覇港を描いた作品は、琉球王国時代には中国からの外交使節団などを歓待する際に屏風絵(びょうぶ・え)として飾られたり、このような掛け軸(かけじく)に仕立てられて贈り物とされていたようです。
 明治時代に入ってからは、王国時代を懐かしむ人々の依頼に応じて画家が描いたり、東京から来る明治政府の役人らを歓待する席に飾ったり、贈り物としたものと考えられ、喜恒の作品もそうした一つでしょう。同じ画題でも時代が変わると鑑賞の仕方も変わるというわけです。

 

 また王国時代~明治時代頃にかけての首里城図は、戦後(1945年~)の首里城再建の際の重要な資料とされました。正殿(せいでん)などを部分的に撮影した写真はありましたが、色彩を含め、全体像を把握できる資料として絵画資料が活用されたのです。もちろん、それぞれの首里城図は、画家の視点によって描きたい部分のみ正確に描かれてますから、あくまで参考資料ということですが(首里城の細部がどうであったかについては現在も様々な議論があります) 、こうした作品が、実作業上においても心理的にも、首里城再建を目指す人々を大いに助けたことは確かでしょう。

 

 喜恒「首里城図」は、松を中心とした木々の柔らかい空間と建造物のシャープな線の対照が特にすぐれた作品ですが、この絵において最も特徴的なのは、絵全体の中で朱色(しゅいろ)の使用を控えた上で、各門に掲げられた額(がく)と首里城正殿の正面入り口のみを鮮やかな朱色で描いていることです。額にはそれぞれの門の名称が書かれています。 
 すべての門の額が朱色で描かれていますが、首里城を訪れた人であれば、通常使用される各門に掲げられた朱塗りの額を眼でたどっていくと、画面下方に大きく描かれた守礼門から歓会(かんかい)門へ、さらに瑞泉(ずいせん)門、漏刻(ろうこく)門、そして奉神(ほうしん)門から正殿へと至ることができるでしょう。また首里城に親しんだ琉球王国時代の士族らであれば、画面左上方の久慶門(きゅうけいもん=主に通用門として使用)・右掖門(うえきもん=王族の私的エリア「御内原(おうちばる)」へ入る門)などすべての門を行き交(か)う王国時代の人々が幻視(げんし)されるかも知れません。

 また、多くの「首里城那覇港図」が首里城、那覇港を行き交う人々を賑やかに描いているのに対し、この絵には人物が全く描かれません。
 喜恒の描いた「無人の首里城」と「各門の朱色の額」は私たちに何を語りかけているようです。

 

(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『沖縄文化の遺宝』(鎌倉芳太郎 編著 )
  ※原本の失われた長嶺宗恭「首里王府画人伝」、末吉安恭「琉球画人伝」を転載するほか、鎌倉自身の調査による琉球王府時代の画家の伝記・作品写真などを掲載する。
『「琉球絵画」展』(沖縄県立博物館・美術館図録 2009年)
※『沖縄文化の遺宝』等をもとに「琉球絵画」人名辞典を掲載する。 ほか

 

(調査ノート)
・喜恒は人物画を得意としたと伝えられている。この首里城図において人物を描かなかったのはそれなりの意図が感じられる。
・門を詳細に描いている。絵画空間の中で導線(どうせん)を描いている。
・瑞泉門の入り口にはいくつもの大きな石が描かれている。徐葆光(じょ・ほこう)の「中山第一」など、歴代の中国からの使者(=冊封使節・さっぽう・しせつ)が山上の泉、瑞泉(ずいせん)を讃えて発した言葉や詩文を刻した石碑の数々で、1945年にすべて破壊されて、一部の割れた石碑が県立博物館に収められている。また、破壊される以前の拓本が沖縄県立図書館の東恩納寛惇文庫などに収蔵されている。
・首里城は明治12年(1879年)~明治29年(1896年)まで熊本分遣隊(ぶんけんたい)が駐屯(ちゅうとん)していた。1894年に仲宗根嶂山(なかそね・しょうざん)が描いた「首里城図」には分遣隊の看板まで描かれている。
・喜恒がこの絵を描いたのは1881年頃との推定もあるが、熊本分遣隊の駐屯の様子は描かれていない。

 

(鶴田大)

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那覇市首里当蔵町・首里城公園

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