識名御殿平面図 (しきなうどぅんへいめんず)

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概要・解説文

阪谷良之進(さかたに・りょうのしん) 作成『識名御殿平面図』解説


 識名御殿(しきな・うどぅん)とは識名園として知られる、かつての琉球王家最大の別荘です。識名御殿は戦争によって(1945年4月30日頃) 破壊されたのですが、多くの人々の努力によって実に20年以上の歳月(1975-1996年)を経て見事に修復・再建されました。現在は貴重な琉球建築・琉球式庭園として一般公開されており、2000年には世界文化遺産にも指定されました。

 

 困難な修復・再建が成功したのは、戦前の様子を知る人々の証言、発掘調査や戦前資料の収集の成果ですが、その際、最も重要な資料の一つとなったのが、阪谷(1883-1941)が残した識名園に関する様々な資料で、この平面図もそうした一つです。

 

 阪谷は文部省(現・文部科学省)の技官(ぎかん) で、1928-1933年に首里城正殿の修復に携わりました。その間、国宝保存法の担当官として沖縄県下の調査を行い、その際に作成したのがこの平面図です。図には「識名御殿 平面図  昭和六年 阪谷見取図(みとりず)」とあり、この図が1931年に作成されたことがわかります。専門技官らしく、柱・壁・襖(ふすま)をはじめ、棚や床(とこ)の位置まで詳しく製図されています。
 建築には様々な図面(平面図、立面図、パース図など)がありますが、最も重要な図面が平面図だと一般にいわれます。戦後の識名御殿再建に当たっては、創建以来増改築を重ねてきた御殿の最も新しい状態、つまり戦前の状態を復元しようというものでしたから、阪谷の平面図は根本資料というべきものでした。(阪谷が作成した首里城・平面図も戦後の再建の際の根本資料となりました。)
阪谷は平面図の他にも詳細な内部写真を数多く残していて、それらは細部の再現のために大きな役割を果たしたようです。

 

 識名御殿は1799年に中国使節を歓待するためにほぼ現在のように整えられて以来、何度も増改築を重ねてきました。王府時代には中国使節団(=冊封使節・さっぽうしせつ)などを迎える際、識名御殿の飾り付けを決めるために部分的ながらおおまかな平面図などが作成されそれらの一部が現存しています。阪谷の平面図を基準として、それらの資料を比較検討することで、識名御殿の変遷(へんせん)が今後、さらに詳しくわかってくることでしょう。

(鶴田大)

詳細解説文

阪谷良之進(さかたに・りょうのしん) 作成『識名御殿平面図』解説(詳細版)


 識名御殿(しきな・うどぅん)とは識名園として知られる、かつての琉球国王家最大の別荘です。識名御殿は戦争によって(1945年4月30日頃) 破壊されたのですが、多くの人々の努力によって実に20年以上の歳月(1975-1996年)を経て見事に修復・再建されました。現在は貴重な琉球建築・琉球式庭園として一般公開されており、2000年には世界文化遺産にも指定されました。

 

 困難な修復・再建が成功したのは、戦前の様子を知る人々の証言、発掘調査や戦前資料の収集の成果ですが、その際、最も重要な資料の一つとなったのが、阪谷(1883-1941)が残した識名園に関する様々な資料で、この平面図もそうした一つです。

 

 阪谷は文部省(現・文部科学省)の技官(ぎかん)で、1928-1933年に首里城正殿の修復に携わりました。その間、国宝保存法の担当官として沖縄県下の調査を行い、その際に作成したのがこの平面図です。図には「識名御殿 平面図  昭和六年 阪谷見取図(みとりず)」とあり、この図が1931年に作成されたことがわかります。専門技官らしく、柱・壁・襖(ふすま)をはじめ、棚や床(とこ)の位置まで詳しく製図されています。
 建築には様々な図面(平面図、立面図、パース図など)がありますが、最も重要な図面が平面図だと一般にいわれます。戦後の識名御殿再建に当たっては、創建以来増改築を重ねてきた御殿の最も新しい状態、つまり戦前の状態を復元しようというものでしたから、阪谷の平面図は根本資料というべきものでした。(阪谷は首里城の詳細な平面図も作成していて、それが戦後の再建の根本資料となりました。)
阪谷は平面図の他にも詳細な内部写真を数多く残していて、それらは細部の再現のために大きな役割を果たしたようです。

 

 識名御殿は1799年に中国使節を歓待するためにほぼ現在のように整えられて以来、何度も増改築を重ねてきました。王府時代には中国使節団(=冊封使節・さっぽうしせつ)などを迎える際、識名御殿の飾り付けを決めるために部分的ながらおおまかな平面図などが作成されそれらの一部が現存しています。阪谷の平面図を基準として、それらの資料を比較検討することで、識名御殿の変遷(へんせん)が今後、さらに詳しくわかってくることでしょう。

 

 なお、識名園の創建年代については諸説があり、1783年(天明三年)着工との伝承が広く行われ戦前の報告書などにも記述されていますが、冊封使節を迎えるほどの現在のような規模となったのは1799年とみられています。これは『柯姓(かせい)国吉家家譜(くによしけ・かふ)』に嘉慶(かけい)三年(1798年)三月十九日に識名御殿を普請(ふしん=建造)する命が下り、同年四月二十二日着工、同年十二月二十日完成、との記述があることによります。完成日を新暦に換算すると1799年1月25日となるのです。
嘉慶五年には趙文楷(ちょう・ぶんかい)を正使、李鼎元(り・ていげん)を副使とする尚温王の就任を認め祝う冊封(さっぽう)使節団が来琉します。識名園を訪れ、その際の記録や、書などが(写真・文献資料を含め)多く残されています。以降の冊封使節は識名御殿(当時の表記は南苑)で歓待を受けることがならわしとなります。

 

 識名園は、幕末には欧米諸国からの来訪者を迎え、明治維新後には日本本土からの来訪者を迎えることとなります。現在は世界遺産として世界からの観光客を迎えています。一方、沖縄工芸の展示会、琉歌会など様々な県民の行事・イベントにも活用されています。


(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『名勝 識名園の創設』(おきなわ文庫 ひるぎ社 2000年刊)
『ガイドブック 識名園』(沖縄出版 編集部 1997年刊)
『戦前の沖縄・奄美 写真帖』(阪谷良之進 作成 1931年頃 沖縄県立図書館 所蔵)
『首里城を救った男 阪谷良之進・柳田菊造の軌跡』(野々村孝男 ニライ社1999年)
『沖縄県内文化財復元・修理等工事報告書集 4』(沖縄開発庁 1987年刊)
『那覇市史 資料編1-7 家譜資料』(1977年) ※柯姓国吉家家譜
『世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群』(沖縄県 2001年) ほか


(調査ノート)
・阪谷良之進の残した資料は現在、沖縄県立図書館に『旧首里城図』(図面)、『識名御殿平面図』(図面)、『首里城付近ノ図』(図面)、『首里城正殿(沖縄神社拝殿)特別保護建造物修理工事関係資料』、『沖縄県下国宝指定建造物資料』(1931年)、『戦前の沖縄・奄美写真帳』(写真・1931年)、『国宝建築物修補資料』の七件がまとめて収蔵されている。
 これらの資料はどれも戦火をくぐり抜けて現存している貴重な資料であり、戦後沖縄の歴史的建造物再建に大きな役割を果たした。
・識名園の創建年代については諸説があり、1783年(天明三年)着工との伝承が広く行われ戦前の報告書などにも記述されているが、冊封使節を迎えるほどの現在のような規模となったのは1799年とみられる。これは柯姓国吉家家譜に嘉慶三年(1798年)三月十九日に識名御殿を普請(=建造)する命が下り、同年四月二十二日着工、同年十二月二十日完成、との記述があることによる。完成日を新暦に換算すると1799年1月25日となる。
・嘉慶五年には趙文楷を正使、李鼎元を副使とする尚温王の就任を認め祝う冊封使節団が来琉する。識名園を訪れ、その際の記録や、書などが(写真・文献資料を含め)多く残されている。以降の冊封使節は識名御殿(当時は南苑と記した) で歓待を受けることがならわしとなった。
・識名園は、幕末には欧米諸国からの来訪者を迎え、明治維新後には日本本土からの来訪者を迎えることとなった。現在は世界遺産として世界からの観光客を迎えている。一方、沖縄工芸の展示会、琉歌会など様々な県民の行事・イベントにも活用されている。

 

 (鶴田大)

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