送東恩納君 (ひがしおんなくんをおくる)

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概要・解説文

奈良原繁(ならはら・しげる) 自筆和歌『送東恩納君(ひがしおんなくんをおくる)』解説

 

 奈良原(1834-1918)は沖縄県知事として1892~1908年の間、強権をふるい「琉球王」とも呼ばれた人物ですが、この作品はそうした奈良原には珍しく人間らしい面がみられる貴重なものです。

 奈良原は教育・土地改革、建設土木事業に大きな成果を上げる一方、その強硬な姿勢には反発も相次いだことで広く知られています。沖縄の民権運動(選挙権など、当時の民衆のほとんどが持っていなかった様々な権利を主張した当時の市民運動)の中心人物として有名な謝花昇(じゃはな・のぼる)も対立した一人です。 

 この作品(掛け軸の二枚の書画のうち、上の一枚。)は、そのように強硬な権力者とされる奈良原が沖縄を出て進学する若き東恩納寛惇に宛てた和歌です。寛惇は1900年(明治33年)第一中学校(現・首里高校)を卒業し、第五高等学校(現・熊本大学)に進学しました。この書はこのときのものとみられます。沖縄のため勉学につとめて、立派な人間になってほしいという奈良原の真剣な願いがあふれています。 

 歌の大意は「今はこうして旅立つ君と別れるけれど、秋の空に遠く北国から越冬のために帰ってくる雁(かり)を待つように、立派に学問を積んで帰ってくる君を待っているよ。」というほどの意味です。(原文「別れては 秋のみ空に かりがねの おとづれをのみ まちわたらなん」)  

 奈良原は実は明治五年(1872年)に琉球王国を日本国に併合するための第一陣の使者として来琉しています。そのときに奈良原らの接待役を務めたのが寛惇の祖父で、それ以来、奈良原と東恩納家は縁ができたのです。のちに奈良原が沖縄県知事として来沖した際にも寛惇の祖父が接待役を勤めました。ですから、こうした心のこもった歌は、年来の親交と、寛惇を沖縄の将来を担う人材として認めたからだともいえます。しかし、沖縄に帰ってきてほしい、と述べる奈良原の歌からは、奈良原なりの沖縄への思いが伝わってくるようです。

 後年、寛惇は歴史学者として大成します。奈良原個人については思い出深い個人的恩人として随筆の中で懐かしげにふれていますが、歴史学者として「琉球王」奈良原を考える寛惇の胸中は複雑なものがあったことでしょう。

 

 さて掛け軸の下の一枚の「亀図(かめのず)」についてはどういうものか、不明な部分が多くあります。書も絵も立派なものですが、歌の筆跡をみると奈良原のものとはだいぶ異なるようです。署名もありません。歌の内容は「亀は万年を生きるというが、今のこの世の中は古い神の時代にも近いほどの良い世の中だと思っているに違いない」というほどの意味です。(原文「さざれにて ありし いわを の そのかみも ちかき世なりと 亀は おもはむ」)

 お祝いの歌という意味では寛惇の旅立ちを祝う歌としてふさわしい面もありますが今ひとつピンと来ません。紙の幅(はば)が、上の奈良原の和歌のものと揃っているところをみると、あるいは奈良原の書と共に周辺人物の筆により描かれ贈られたのかも知れません。しかし例えば、古くから伝わる絵巻物などは、修理などの際に絵の順番が入れ替わったりしていることがよくあります。この「亀図」もあるいは、何か別の機会に東恩納寛惇文庫に入ったものが誤って奈良原の和歌とセットとなったものかもしれません。

 今後、詳しく調査をすると何か興味深いことがわかるかもしれません。

 
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(調査ノート)
・県令、奈良原繁から東恩納(寛惇)へ贈った和歌二首(二枚。一枚は懐紙風。一枚は亀図に画賛(和歌)という色紙風。)を上下に並べて一幅に軸装しているものか。ただし二枚の歌の書風が著しく相違しており、別筆の可能性が大きい。とすると、懐紙は奈良原のもの、もう一枚は無関係であるか、または奈良原と関係のある人物のものか。落款などの存しないところをみると尚家などが考えられるが、尚家の人物の書画が奈良原知事の下部に配置されるはずはないので、調査が必要となる。これについては軸装に仕立てた時期についても重要で、東恩納寛惇文庫にある、まとめて一時期の仕立てられた一連の収蔵品群とは異なる、やや入念な軸装であり、それが東恩納寛惇生前のものとすれば、尚家の人物の歌・絵が奈良原知事の下部に配置されるはずはない。
・和歌(一枚目・釈文)「送 東恩納君 「繁 「別れては「秋のみ空に「かりがねの「おとつれを「のみまち「わたらなん」
・和歌(二枚目・釈文)「さざれにて「ありし「いはをの「そのかみも「ちかき世なりと「亀は「おもはむ」
 ・さざれいし(小石)は古来、時間を経て大岩になると考えられていた。昔のさざれ石(小石)が大きくなって安住できる大岩になっていること、万年(万代)を生きる亀とともに歌意を絵で表現している。
・歌の大意は、「はるか昔には小さかった石も時代を経て成長して今では苔の生えるような大岩になっている。亀もその大岩にのんびりと甲羅干し(こうらぼし)をしている。そのように私たちの時代にも明るい兆しがみえるようだ。」というほどの意味。
さらに詳しい歌意は詠み手、受け手が誰であるかによって変わる。一般的には、「このよき時代があるのも天帝、天子(天皇)のお蔭だ」「この時代生き遭えたことは幸いなことだ」ということになるし、奈良原らが東恩納に宛てたのであれば「共により良い世の中を作っていこう」という意味も加わる。
・二枚目の亀図の和歌賛の筆跡は相当に連綿仮名を書き慣れた人の手と思われる。奈良原とは筆跡が異なる。東恩納寛惇が応答した書画かとも考えられなくもないが、全集5の冒頭にある寛惇の琉歌の筆跡をみると、いわゆる学者の筆跡で、能書という印象はない(後年、上達したという可能性はある。)。また、内容からして、寛惇が唱和するような内容とはみえない。
 
(鶴田大)
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