御免琉球人行列附 [1842年] (ごめんりゅうきゅうじんぎょうれつつけ)

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概要・解説文

『琉球人行列図(りゅうきゅうじん・ぎょうれつのず) 』(1842年) 解説


 こうした「琉球人行列」版画は、琉球使節団が江戸を訪問するたびに当時の出版社(=板元・はんもと)が競って、使節団の詳しい役職や人名を木版印刷にして、あらかじめ全国の人々に販売したものです。当時の日本(大和文化圏)の人々は、琉球王国の使節をまるで竜宮からの使者のように思っていたようです。

 

 この行列図は、新しく江戸幕府将軍となった第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の就任を祝う1842年(天保十三年) の琉球使節団の様子を描いたものです。
 絵(=木版の元となる絵)を描いたのは渓斎英泉(けいさい・えいせん)。当時の有名な浮世絵師です。出版は江戸の丸屋甚八(まるや・じんぱち)です。絵は必ずしも実際の行列の姿を正確に写しているとは限りませんが、人物名を含め、かなり正確のようです。
 正使の前には~楽師(がくし=音楽の演奏者)らの一団が路次楽(ろじがく=行進しながらの演奏)が花やかに行列の到来を人々に知らせます。正使・副使らの後ろには馬に乗った楽童子(がくどうじ=元服前の有力士族の子。琉球人行列の花形。祝宴の際、音楽・舞踊・書・詩・歌などに活躍。)が続くのが通例ですが、この行列では儀衛正(ぎえいしょう=行列全体と楽隊の統括責任者)の後ろを大人しく歩いています。ただ、ヒゲをたくわえず、髪飾りをつけた姿はやはり楽童子らしい様子です。

 

 琉球国王は様々な機会に江戸幕府へ使者を送りました。琉球国王が代替わりしたときの謝恩使(しゃおんし)、幕府将軍が代替わりしたときの慶賀使(けいがし)などです。江戸時代のおよそ250年の間に合計20回ほど使節団が送られました。使節団一行は道中、宿場沿いの人々からたいへんな歓待を受けました。九州、瀬戸内海地方、近畿地方から東海道にかけて、地元の人々との交流が行われ、今でも各地には使節団の様々な書画・美術品、エピソードが無数に残されています。
 政治的には複雑な関係があったり、難しい交渉もありましたが、琉球王国と当時の日本(大和文化圏)との親交を深め、様々な文化交流が行われる重要な歴史的いとなみであったといえるのでしょう。

 

 この絵に見える正使「浦添王子」朝憙(ちょうき)はこの江戸往復に際して、多くの文人と交流。当時の和歌(江戸時代の公式文学。現在の短歌のもと。)世界の第一人者、最晩年の香川景樹(かがわ・かげき)から直接、教えを受けました。また「儀衛正」を勤めた「伊計親雲上(いけい・ぺーちん)」は琉球を代表する書家・鄭元偉(てい・げんい。父は同じく琉球を代表する書家・鄭嘉訓=てい・かくん)のことです。正使・朝憙らと共に、薩摩藩主に漢詩を求められたので、江戸往復を詠んだ多くの詩を集めて『東游草(とうゆうそう)』と題して贈りました。薩摩藩主はのちにこれを出版し琉球にも贈りました。
 こうして琉球人行列に参加した人々は、重い責任を果たすと共に見聞を広め、帰琉後、行政に文化に大活躍します。

(鶴田大)

詳細解説文

『琉球人行列図(りゅうきゅうじん・ぎょうれつのず) 』(1842年) 解説 (詳細版)


 こうした「琉球人行列」版画は、琉球使節団が江戸を訪問するたびに当時の出版社(=板元・はんもと)が競って、使節団の詳しい役職や人名を木版印刷にして、あらかじめ全国の人々に販売したものです。当時の日本(大和文化圏)の人々は、琉球王国の使節をまるで竜宮からの使者のように思っていたようです。

 

 この行列図は、新しく江戸幕府将軍となった第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の就任を祝う1842年(天保十三年) の琉球使節団の様子を描いたものです。(実際には家慶の将軍就任は1837年ですから五年ほど経過しています。使節団の人選から、贈り物の準備まで長い時間を要したわけですが、近代以前のアジアの時間感覚は、今とは随分、異質であったことがうかがえます。)
絵(=木版の元となる絵)を描いたのは渓斎英泉(けいさい・えいせん)。当時の有名な浮世絵師です。出版は江戸の丸屋甚八(まるや・じんぱち)です。絵は必ずしも実際の行列の姿を正確に写しているとは限らず、この絵においても各役職の行列における位置などは不正確と思えるところが多いですが、役職名・人物名についてはかなり正確に記入しているようです。
 画面右上が行列の先頭で、馬上・御輿(みこし)上の人物をみてゆくと、先乗(さきのり=道案内役。大和風の人物は薩摩藩士) ~ 圉師(ぎょし=献上する馬などを管理) ~ 掌翰使(しょうかんし=文書を管理) ~ 正使(せいし=琉球国王の代理であるこの使節の代表。) ~ 副使(ふくし=正使の補佐役。) ~ 讃儀官(さんぎかん=副使の補佐。) ~ 楽正(がくせい=祝宴の音楽行事の責任者) ~ 儀衛正(ぎえいしょう=行列と、行列で行われる音楽(=路次楽・ろじがく)の統括責任者。通常は行列の先頭付近に位置する。) ~ 讃儀官従者(さんぎかん・じゅうしゃ=讃儀官の補佐)と続きます。書き入れに「大行列なので、以下は省略します」とあります。
 正使の前には楽師(がくし=音楽の演奏者)らの一団が路次楽(行進しながらの演奏)を奏でて、花やかに行列の到来を人々に知らせます。副使らの後ろには馬に乗った楽童子(がくどうじ=元服前の有力士族の子。祝宴の際、音楽・舞踊・書・詩・歌などに活躍。)が続くのが通例です。しかしこの行列では儀衛正の後ろを大人しく歩いています。ただ、ヒゲをたくわえず、髪飾りをつけた姿はやはり楽童子らしい様子です。

 

 琉球国王は様々な機会に江戸幕府へ使者を送りました。琉球国王が代替わりしたときの謝恩使(しゃおんし)、幕府将軍が代替わりしたときの慶賀使(けいがし)などです。江戸時代のおよそ250年の間に合計20回ほど使節団が送られました。使節団一行は道中、宿場沿いの人々からたいへんな歓待を受けました。九州、瀬戸内海地方、近畿地方から東海道にかけて、地元の人々の交流が行われ、今でも各地には使節団の様々な書画・美術品、エピソードが無数に残されています。
 政治的には複雑な関係があったり、難しい交渉もありましたが、琉球王国と当時の日本(大和文化圏)との親交を深め、様々な文化交流が行われる重要な歴史的いとなみであったといえるので琉球使節の祝いを受けた徳川家慶(いえよし)は天保(てんぽう)の改革を行った将軍として知られます。厳しい財政改革や言論統制を行い、幕末に向かい混乱する時代を生きました。1853年6月、「太平の世」を打ち破るペリー提督の黒船が東京湾の向こうに現れる頃、対応に追われながら病没しています。

 

 一方、この絵にも見える正使「浦添(うらそえ)王子」朝憙(ちょうき)はこの江戸往復に際して、多くの文人と交流しました。当時の和歌文学(江戸時代の公式文学。現在の短歌のもと。) の第一人者、最晩年の香川景樹(かがわ・かげき) から直接、教えを受けました。また「儀衛正」を勤めた「伊計親雲上(いけい・ぺーちん)」は琉球を代表する書家・鄭元偉(てい・げんい。父は同じく琉球を代表する書家・鄭嘉訓=てい・かくん)です。正使・朝憙らと共に、薩摩藩の求めに応じて、江戸往復を詠んだ多く漢詩を集めて『東游草(とうゆうそう)』と題して贈りました。薩摩藩はのちにこれを出版し琉球にも贈りました。
 この「江戸立ち」の行きに立ち寄った薩摩での様子は『副使座喜味親方(ふくし・ざきみ・うぇーかた)日記』に記されており、書家としても知られた座喜味親方盛普(せいふ)=毛達徳(もう・たつとく ※唐名・からな)の書は県立図書館に収蔵されています。
こうして琉球人行列に参加した人々は、外交行事の重い責任を果たすと共に見聞を広め、帰琉後、行政に文化に大活躍します。

(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『琉球使節、江戸へ行く!』(沖縄県立博物館・美術館 展覧会図録 2009年)
『琉球使節の江戸上り』(宮城栄昌 著 第一書房 1982年) ほか


(調査ノート)
・天保十三年、第十二代将軍家慶の就任を祝う慶賀使を描いた琉球人行列図。
・板元は江戸・丸屋甚八(まるや・じんぱち)。
・一般的な琉球人行列の隊列は、馬上人物・御輿(みこし)人物を中心にみていくと、先乗(さきのり=道案内役。大和風装束の薩摩藩の侍ら) ~儀衛正(ぎえいしょう=行列と行列で行われる路次楽(ろじがく=中国風音楽)の統括責任者 ) ~(路次楽・楽人) ~ (献上物や引かれていく馬に続き) ~ 圉師(ぎょし=献上する馬などを管理) ~(「豊見城王府」と書かれた板に続き)~ 掌翰使(しょうかんし=文書を管理) ~ 正使(せいし=琉球国王の代理であるこの使節の代表。) ~ 副使(ふくし=正使の補佐役。) ~讃儀官(さんぎかん=副使の補佐。) ~ 楽正(がくせい=祝宴の音楽行事の責任者) ~ 楽童子(有力な家の元服頃までの少年たちで行列の花形。祝宴などで詩歌(しいか)、書画、歌舞を披露した。ヒゲが無いので区別できる) ~ 楽師(がくし=祝宴の音楽会の楽器奏者) ~ 正使・副使・讃儀官従者(さんぎかん・じゅうしゃ)ら ~ 最後に後見の大和風装束の武士(薩摩藩士)と続く。さらにそれぞれの重職の人物の近くを従者らが歩いて行く。
・楽童子らが乗馬していない点、また位置が副使の後ろでない点が通常と異なるが、隊列によってはこのような隊列もあったのかもしれない。また、絵画資料は必ずしも歴史資料としてそのまま受け取る性格のものではないので要注意
・原題の『御免琉球人行列附(ごめん・りゅうきゅうじん・ぎょうれつ・つけ)』については、「御免」というのは一般に免許証と同じで、許可を得ているという意味を示す。この場合は薩摩藩などの許可を得ている、などの意味であろう。また「御免」は通行する際の一般的な挨拶で、行列図や文芸・舞台などのタイトルにしばしば使用されたものであり、内容にも掛けてある、とみられる。末尾の「附」というのは「付録」の意味で、本来、文章中心の読み物のオマケとして作られたものだからであろう、といわれている。
・「琉球人行列図」は一般に歴史資料として活用する際には注意を要する。例えば、実際には行列全体に渡って大和風装束(やまとふうしょうぞく)の武士(=薩摩藩士) が歩くのが本来のようだが、ほとんどの行列図ではそのように描かれていない。視覚性を重視し、琉球の人々の姿がよく見えるように、薩摩藩士の姿は行列の先頭と末尾のみに描かれるのが通例となっている。

(鶴田大)

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