御免琉球人行列附 [1832年] (ごめんりゅうきゅうじんぎょうれつつけ)

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概要・解説文

『琉球人行列図(りゅうきゅうじん・ぎょうれつのず) 』(1832年) 解説


 こうした「琉球人行列」版画は、琉球使節団が江戸を訪問するたびに当時の出版社(=板元・はんもと)が競って、使節団の情報を入手して、木版印刷にして、あらかじめ全国の人々に販売したものです。当時の日本(大和文化圏)の人々は、琉球王国の使節をまるで竜宮からの使者のように迎えたようです。

 

 この行列図は、新しく琉球国王となった尚育王(しょういくおう)の就任を認め祝ってもらった返礼に江戸を訪れた、1832年(天保三年) の琉球使節団の様子を描いたものです。

 

 絵(=木版の元となる絵)を描いたのは有名な浮世絵師、歌川国芳(うたがわ・くによし)です。琉球人行列の絵には様々なものがありますが、この作品は行列全体を描写し、記録性にこだわりながらもすぐれた絵画性を持っています。行列全体がうねりながら一つの生き物のように進んで行くリアルなイメージを、実に見事に描写しているのです。他の多くの作品と異なり上下二段にわたる行列が途切れずに画面右側で折り曲がるように描くなど、様々な工夫が豊かな絵画性を支えているようです。 (※隊列の詳細については「調査ノート」参照)

 

 このように1832年の琉球人行列はこの作品においてすぐれた隊列を成しているのですが、内実(ないじつ)は中々にたいへんなものでした。というのは、行列の正使、豊見城(とみぐすく)王子・朝春(ちょうしゅん)をはじめ、要職者だけでも四名もの人が江戸到着までに亡くなってしまうのです。

 

 江戸を訪れる琉球人使節は「江戸立(えどだち)」と呼ばれ、その一員に選ばれることはとても名誉なことでした。しかし片道2000キロ、江戸滞在の約1ヶ月半を含め一年近くの旅は、かなり苛酷なものだったとみられますが、この天保三年の「江戸立ち」の例は特にそのことを物語っています。

 

 琉球国王は様々な機会に江戸幕府へ使者を送りました。琉球国王が代替わりしたときの謝恩使(しゃおんし)、幕府将軍が代替わりしたときの慶賀使(けいがし)などです。江戸時代のおよそ250年の間に合計20回ほど使節団が送られました。使節団一行は道中、各地の人々と親しく交流し、今でも各地には使節団の残した書画・美術品、エピソードが多く残されています。
 政治的には複雑な関係や難しい交渉もありましたが、琉球王国と当時の日本(大和文化圏)との親交を深め、様々な文化交流が行われる重要な歴史的いとなみであったといえるのでしょう。

 琉球使節の謝恩儀礼を受けた徳川家斉(いえなり)は寛政(かんせい)の改革や、江戸時代後期の文化的黄金期とされる「化政(かせい)文化」を現出させたことでも知られます。

 

 一方、この絵に描かれた人々は、この江戸往復に際して、多くの文人と交流し相互の影響関係は多大なものであったとみられます。重い責任を果たすと共に見聞を広め、帰琉後、行政に文化に大活躍します。

(鶴田大)

詳細解説文

『琉球人行列図(りゅうきゅうじん・ぎょうれつのず) 』(1832年) 解説 (詳細版)


 こうした「琉球人行列」版画は、琉球使節団が江戸を訪問するたびに当時の出版社(=板元・はんもと)が競って、使節団の情報を入手して、木版印刷にして、あらかじめ全国の人々に販売したものです。当時の日本(大和文化圏)の人々は、琉球王国の使節をまるで竜宮からの使者のように迎えていたようです。

 

 この行列図は、新しく琉球国王となった尚育王(しょういくおう)の就任を認め祝ってもらった返礼に江戸を訪れた、1832年(天保三年) の琉球使節団の様子を描いたものです。尚育王が正式に国王に就任したのは1835年ですが既に先王が病気引退状態でしたから、1828年の十六歳の頃には国政を担い、事実上の国王として周辺国に認めてもらう状況にあったのです。

 

 絵(=木版の元となる絵)を描いたのは歌川国芳(うたがわ・くによし)。江戸後期から幕末にかけてユニークな視点から世相を映す、迫力のある画風で活躍した浮世絵師です。出版は江戸の平野屋助三郎(ひらのや・すけさぶろう)らです。
 彩色(さいしき)はわずかにありますが、当時のものか後代(こうだい)に書き加えられたものかはっきりしません。同一の版木(はんぎ)・制作者による作品が県立図書館にありますがそちらは無彩色です(→資料ID 1001998358)。

 

 この作品は行列全体を描写しながらも文字情報よりも絵画性にこだわっているようです。路次楽(ろじがく=行進しながら奏でる音楽隊) の楽器など、限られたトピックスについてのみ詳しく書き入れがある一方で、役職名、人名などはほとんど省かれ、行列全体がうねりながら一つの生き物のように進んで行くリアルなイメージを、実に見事に描写しています。このすぐれた描写を支えているものは主に二点が挙げられるでしょう。
 一つには、構図上の工夫です。一般に列全体を描く際には上下二段に分けて、描くことが多いようですが、この作品では、上下二段にわたる行列が途切れずに画面右側で折り曲がるように表現されています。
 もう一つには細部へのこだわりです。正使と副使の乗る御輿(みこし)はきちんと描き分けられていますし、詳しく隊列をみると、最もオーソドックスな役職ごとの並びが正確に描かれているのです。ボリューム的にも琉球人使節、約100名ほどの人数が描かれています。つまり細部を正確に描くことがこの絵にリアリティを与えているといえます。
(※隊列の詳細については「詳細解説」の「調査ノート」参照)

 

 このように1832年の琉球人行列はこの作品においてすぐれた隊列を成しているのですが、内実(ないじつ)は中々にたいへんなものでした。というのは、行列の正使、豊見城(とみぐすく)王子・朝春(ちょうしゅん)が琉球を旅立ってから薩摩(鹿児島)に到着早々、病気で亡くなってしまうのです。すぐさま、準備の通り、万一の際に備えて正使の役職について学んでいた讃儀官(さんぎかん。本来、副使の補佐)である普天間朝典(ふてんま・ちょうてん)が「豊見城王子」という名で正使に任じられました。さらに讃儀官従者(さんぎかん・じゅうしゃ=副使の補佐の補佐)など要職者だけでも合計四名もの人が江戸到着までに亡くなってしまうのです。

 

 江戸を訪れる琉球人使節は「江戸立ち」と呼ばれ、その一員に選ばれることはとても名誉なことでした。しかし片道2000キロ、江戸滞在の約1ヶ月半を含め一年近くの旅は、習慣・気候の違いなどもあり、心身ともにかなり苛酷なものだったとみられますが、この天保三年の「江戸立」の例は特にそのことを物語っています。
 この作品に詳しい人名が書き込まれていないのは、もしかしたら、こうした事情が出版者らに伝わっていたからかもしれません。

 

 琉球国王は様々な機会に江戸幕府へ使者を送りました。琉球国王が代替わりしたときの謝恩使(しゃおんし)、幕府将軍が代替わりしたときの慶賀使(けいがし)などです。江戸時代のおよそ250年の間に合計20回ほど使節団が送られました。使節団一行は道中、九州・瀬戸内海地方・近畿地方から東海道にかけて、地元の人々と盛んに交流し、今でも各地には使節団の残した書画・美術品、エピソードが無数に残されています。
 政治的には複雑な関係や難しい交渉もありましたが、琉球王国と当時の日本(大和文化圏)との親交を深め、様々な文化交流が行われる重要な歴史的いとなみであったといえるのでしょう。

 

 琉球使節の謝恩儀礼を受けた徳川家斉(いえなり)は寛政(かんせい)の改革を断行したほか、江戸時代後期の文化的黄金期とされる「化政(かせい)文化」を現出させたことでも知られます。

 

 一方、江戸立の人々は、この江戸往復を通して、多くの文人と交流しました。彼らは外交行事の重い責任を果たすと共に見聞を広め、帰琉後、行政に文化に大活躍します。

 

 「江戸立」の旅中に亡くなった人々はその地に葬られます。そしてその後の琉球使節たちは葬られた寺などに参拝するとともに、書額(しょがく)などを祈念として奉納(ほうのう)しました。そうした墓や遺品が今も各地に多く残されています。

(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『琉球使節、江戸へ行く!』(沖縄県立博物館・美術館 展覧会図録 2009年)
『琉球使節の江戸上り』(宮城栄昌 著 第一書房 1982年) ほか

 

(鶴田大)

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