御免琉球人行列附 [1790年] (ごめんりゅうきゅうじんぎょうれつつけ)

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概要・解説文

『琉球人行列図(りゅうきゅうじん・ぎょうれつのず) 』(1790年) 解説

 

  こうした「琉球人行列」版画は、琉球使節団が江戸を訪問するたびに当時の出版社(=板元・はんもと)が競って版権や、使節団の情報を入手して、木版印刷にして、あらかじめ全国の人々に販売したものです。当時の日本(大和文化圏)の人々は、琉球王国の使節をまるで竜宮からの使者のように迎えていたようです。

 

 この行列図は、新しく江戸幕府将軍となった徳川家斉(いえなり)の就任を祝うため江戸を訪れた、1790年(寛政二年) の琉球使節団の様子を描いたものです。同年刊行の「琉球人行列図」はその後恒例となる木版一枚刷(もくはん・いちまいずり)の「琉球人行列図」刊行の最初期のものとされ、その意味でもこの作品は歴史的に重要なものです。

 

 琉球使節から慶賀儀礼を受けた将軍・家斉は寛政の改革を断行したほか、江戸時代後期の文化的黄金期とされる「化政(かせい)文化」を現出させたことでも知られます。

 

 琉球国王は様々な機会に江戸幕府へ使者を送りました。琉球国王が代替わりしたときの謝恩使(しゃおんし)、幕府将軍が代替わりしたときの慶賀使(けいがし)などです。江戸時代のおよそ250年の間に合計20回ほど使節団が送られました。使節団一行は道中、九州、瀬戸内海地方、近畿地方から東海道にかけて、地元の人々との盛んに交流を行い、今でも各地には使節団の様々な書画・美術品、エピソードが無数に残されています。

 政治的には複雑な関係や難しい交渉もありましたが、琉球王国と当時の日本(大和文化圏)との親交を深め、様々な文化交流が行われる重要な歴史的いとなみであったといえるのでしょう。

 

 琉球人行列の絵には様々なものがありますが、この作品では役職名、道具名を中心に大まかな文字情報が記入されています。(※行列全体の構成については「詳細解説」の「調査ノート」参照)。

 

 またこの絵の大きな特徴は、他の(後代の)多くの琉球人行列の作例(さくれい)と比べ、人々が実に豊かな表情をしていることです。こうした行列図が描かれた最初期のものですから描き方が型にとらわれていなかったということでしょう。

 

 江戸を訪れる琉球人使節は「江戸立(えどだち)」と呼ばれ、100名ほどの使節団の一員に選ばれることはとても名誉なことでした。しかし片道2000キロ、江戸滞在の約1ヶ月半を含め一年弱の旅は、かなり苛酷なものだったようで、道中の病気などで亡くなる人もあったようです。

 

 江戸立に参加した人々は、この江戸往復を通して多くの文人と交流し、相互の影響関係は多大であったとみられます。彼らは外交行事の重い責任を果たすと共に見聞を広め、帰琉後、行政に文化に大活躍します。

 
(鶴田大)

詳細解説文

『琉球人行列図(りゅうきゅうじん・ぎょうれつのず) 』(1790年) 解説(詳細版)

 

 こうした「琉球人行列」版画は、琉球使節団が江戸を訪問するたびに当時の出版社(=板元・はんもと)が競って版権や、使節団の情報を入手して、木版印刷にして、あらかじめ全国の人々に販売したものです。当時の日本(大和文化圏)の人々は、琉球王国の使節をまるで竜宮からの使者のように思っていたようです。

 

  この行列図は、新しく江戸幕府将軍となった徳川家斉(いえなり)の就任を祝うため江戸を訪れた、1790年(寛政二年) の琉球使節団の様子を描いたものです。1790年に刊行された「琉球人行列図」はその後恒例となる木版一枚刷(もくはん・いちまいずり)の「琉球人行列図」刊行の最初のものとされ、その意味でもこの作品は歴史的に重要なものです。

 

 琉球使節から慶賀儀礼を受けた徳川家斉は1787年~1837年のじつに50年にわたって将軍位にあった人物で、寛政の改革を断行したほか、江戸時代後期の文化的黄金期とされる「化政(かせい)文化」を現出させたことでも知られます。

 

 琉球国王は様々な機会に江戸幕府へ使者を送りました。琉球国王が代替わりしたときの謝恩使(しゃおんし)、幕府将軍が代替わりしたときの慶賀使(けいがし)などです。江戸時代のおよそ250年の間に合計20回ほど使節団が送られました。使節団一行は道中、宿場沿いの人々からたいへんな歓待を受けました。九州、瀬戸内海地方、近畿地方から東海道にかけて、地元の人々との交流が行われ、今でも各地には使節団の様々な書画・美術品、エピソードが無数に残されています。政治的には複雑な関係があったり、難しい交渉もありましたが、琉球王国と当時の日本(大和文化圏)との親交を深め、様々な文化交流が行われる重要な歴史的いとなみであったといえるのでしょう。

 

 絵(木版の元となる絵)を描いたのは浮世絵師についてはこうした絵には珍しく記載がありません。出版は江戸の林屋茂兵衛(はやしや・もへい)です。

 琉球人行列の絵には様々なものがありますが、この行列図は比較的おおまかに描かれたもののようです。行列図には、行列の中から主要な人物やモチーフを絞って描いた錦絵(にしきえ)風のものから、人数や役職名・名前まで詳細に記入したものまで多種多様な作例(さくれい)があるのです。この作品では役職名、道具名を中心に大まかな文字情報が記入されています。(※行列全体の構成については「詳細解説」の「調査ノート」参照)。

 

 ここには描いた画家の名前も描かれている人名も記されていないのですが、他の(後代の)多くの琉球人行列の作例(さくれい)と比較して、この絵の人々は実に豊かな表情をしています。通常の琉球人行列図はどの人物もすました表情をしていることが多いのですが、ここでは、笑顔あり、しかめ面あり、緊張したような表情ありで、その身体の動きもとても活き活きとしています。こうした行列図が描かれた最初のものですから描き方が型にハマっていなかったという理由が最も考えられます。また、おそらく当時無名だった画家の個性が十分に発揮されたせいかもしれません(有名な画家であれば出版社も画家の名前を大きく書くからです。)。

 江戸を訪れる琉球人使節は「江戸立(えどだち)」と呼ばれ、100名ほどの使節団の一員に選ばれることはとても名誉なことでした。しかし片道2000キロ、江戸滞在の約1ヶ月半を含め一年弱の旅は、かなり苛酷なものだったようで、道中の病気などで亡くなる人もあったようです。天保三年(1832年)の使節団では正使・豊見城(とみぐすく)王子をはじめ、要職者だけでも四名が亡くなっています。

 

 この絵に描かれた人々の中で要職にあった人々の名前は記録から知られています。この江戸往復に際して、多くの文人と交流し相互の影響関係は多大なものであったとみられます。彼らは外交行事の重い責任を果たすと共に見聞を広め、帰琉後、行政に文化に大活躍します。

 「江戸立ち」の旅中に亡くなった人々はその地に葬られました。そしてその後の琉球使節たちは葬られた寺などに参拝するとともに、書額(しょがく)などを祈念として奉納(ほうのう)しました。1610年、政治的混乱(薩摩藩による琉球侵攻)の中で江戸へ向かう尚寧王(しょうねい・おう)に随行(ずいこう)した具志頭(ぐしちゃん)王子・尚宏(しょう・こう)が途中で病死して葬られた清見寺(せいけんじ・静岡県)には、この寛政二年の正使である宜野湾王子・尚容(しょう・よう)が奉納した書や琉球漆器(しっき)などが今も大切に保管されています。

 
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『琉球使節、江戸へ行く!』(沖縄県立博物館・美術館 展覧会図録 2009年)
『琉球使節の江戸上り』(宮城栄昌 著 第一書房 1982年) ほか

(調査ノート)
・一般的な琉球人行列の隊列は、馬上人物・御輿(みこし)人物を中心にみていくと、先乗(さきのり=道案内役。大和風装束の薩摩藩の侍ら) ~儀衛正(ぎえいしょう=行列と行列で行われる路次楽(ろじがく=中国風音楽)の統括責任者 ) ~(路次楽・楽人) ~ (献上物や引かれていく馬に続き) ~ 圉師(ぎょし=献上する馬などを管理) ~(「豊見城王府」と書かれた板に続き)~ 掌翰使(しょうかんし=文書を管理) ~ 正使(せいし=琉球国王の代理であるこの使節の代表。) ~ 副使(ふくし=正使の補佐役。) ~讃儀官(さんぎかん=副使の補佐。) ~ 楽正(がくせい=祝宴の音楽行事の責任者) ~ 楽童子(有力な家の元服頃までの少年たちで行列の花形。祝宴などで詩歌(しいか)、書画、歌舞を披露した。ヒゲが無いので区別できる) ~ 楽師(がくし=祝宴の音楽会の楽器奏者) ~ 正使・副使・讃儀官従者(さんぎかん・じゅうしゃ)ら ~ 最後に後見の大和風装束の武士(薩摩藩士)と続く。さらにそれぞれの重職の人物の近くを従者らが歩いて行く。
・原題の『御免琉球人行列附(ごめん・りゅうきゅうじん・ぎょうれつ・つけ)』については、「御免」というのは一般に「許可を得ている」という意味でこの場合は薩摩藩などの許可を得て出版しているということだろう。同時に、「御免」は通行する際の一般的な挨拶で、行列図や文芸・舞台などのタイトルにしばしば使用されたもの。両者の意味が掛け合わされいるのだろう。末尾の「附」というのは「付録」の意味で、本来、文章中心の読み物のオマケとして作られたものだからであろう、といわれている。
・「琉球人行列図」は一般に歴史資料として活用する際には注意を要する。例えば、実際には行列全体に渡って大和風装束(やまとふうしょうぞく)の武士(=薩摩藩士) が歩くのが本来のようだが、ほとんどの行列図ではそのように描かれていない。視覚性を重視し、琉球の人々の姿がよく見えるように、薩摩藩士の姿は行列の先頭と末尾のみに描かれるのが通例となっている。
(鶴田大)
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