東恩納寛惇より新垣美登子女史への書 (ひがしおんなかんじゅんよりあらかきみとこじょしへのしょ)

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概要・解説文

 「天衣無縫」という言葉は現在でもよく使われるもので、技巧を凝らさず自然でしかも完璧な美しさをたたえている様子をたとえて言います。天女の羽衣は糸や針で縫い合わせた跡がないという中国の伝説によるものです。
書を揮毫(きごう)したのは歴史学者・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん 1882~1963)です。寛惇は伊波普猷(いは・ふゆう)などと並んで沖縄学の創始者の一人とみられている人物です。
 書を贈られたのは作家・新垣美登子(あらかき・みとこ 1901~1996)です。美登子は早くから小説家として活躍し、戦前・戦後を通して沖縄出身の女性の作家として広く知られました。若い頃は東京で活躍しましたが、後年
は那覇で美容室を経営して最晩年まで執筆を続けました。寛淳没後の美登子による随筆に以下のような内容が記されています。
〔美登子の日本女子大学入学に際して在京の寛淳が身元引受人になった縁だったがその後、疎遠だった。戦前に那覇の遊郭(ゆうかく)の辻を舞台に小説を書いたところ寛淳が不快感を持っていると伝え聞いた。戦後の1958(昭和33)年11月に帰沖した晩年の寛淳を皆で歓迎した。小説のことで恐れていたが実際に会うと上機嫌で「美登子は天衣無縫だね」と寛淳は笑顔で言った。皆で北部の伊野波、謝敷、源河などの歌碑巡りの旅行へ出かけ楽しいひとときを過ごした。その後、美登子らは東京へ行き、寛淳の再婚の世話をしようとしたが、寛淳が以前と異なり「ひっそりした態度」だったので再婚を勧める話は取りやめた。寛淳没後、美登子の手許には寛淳の書『天衣無縫』と『老子の詞』が残された。〕
本資料は1958年の寛淳の帰沖の際などに美登子へ贈られ、美登子没後に『老子』の一節を揮毫(きごう)した書「能閉者・・・」と共に東恩納文庫の所蔵となったようです。

 寛惇が美登子へこの書を贈ったことは、文学史を含め歴史全般に深い知識を持つ同郷の先輩からの励ましであり、この書が美登子の執筆活動に大きなちからとなったことは想像に難くありません。分野は異なりますが、二
人とも文章の執筆を生業(なりわい)としています。先輩である寛惇は堅実な歴史学者らしく、技巧の跡を残さない「天衣無縫」の達意の作文術を願って、この書を郷土の後輩に贈ったものと考えられます。
 「天衣無縫」という書の左側にあるのは「為新垣美登子女史(あらかきみとこじょしのために)」という為書(ためがき)と、「虬州学人(きゅうしゅうがくじん)」という署名です。「女史」というのは、近年はあまり用いませんが、かつて学識のある女性に対して敬意を表すために用いられました。「虬州」というのは寛惇のペンネーム(雅号 がごう)で「琉球」の意味です。「学人」という言葉は「学者」ほどの意味であり、こうした書には通常あまり用いられない言葉ですが、おそらく寛惇が「歴史学者である自分には同時代の小説についてよくわからないが、郷土の先輩として君を応援している」という意味を込めたものと思われます。
 寛惇の書は寛惇らしい飾り気のない質実な性格をよく表している書風です。
(鶴田 大)

詳細解説文

 「天衣無縫」という言葉は『日本国語大辞典』によると以下の通りです。
 「霊怪録」の「郭翰、乗月臥庭中、仰視空中、有人冉冉而下、曰、吾天上織女也。徐視其衣竝無縫。翰問之、曰、天衣本非針線為也」による。天人の着物に縫い目のような人工の跡がないこと。転じて、文章、詩歌などに技巧のあとが見えず、ごく自然にできあがっていてしかも完全で美しいこと。また、そのさま。
 『霊怪録』は中国古代の霊験譚(れいげんたん)で、特にこの「天衣無縫」の故事がよく知られる古典です。

 寛惇と美登子のつながりについては千原繁子も随筆集『カルテの余白』(若夏社 1978年)で以下のように、美登子が那覇の遊郭(ゆうかく)である辻を舞台に新聞小説を書いたことに対する寛惇の反応やその後の交流などについて述べています。
(前略・・・)東京の東恩納寛惇先生から新聞社の親泊政博氏に物言いがあった。「女だてらに辻の内面をかくとは汚らわしい。沖縄ではそんな″手合い"を女流作家というのか。」と。その後、20数年がすぎ、戦後の沖縄を訪れた東恩納先生は、いとこに当たる新嘉喜家に滞在して、大勢の知人との久闊を喜び語っていた。そこへ美登子さんは女子大時代の保証人であった関係で挨拶に行った。″手合い"といわれた記憶もこの人には何のその、いっこうに通じなかったらしく、又先生も喜んで、明日「伊野波の石くびり」を訪ねるから連れて行くとおっしゃった。(・・・後略)
(鶴田 大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
・『日本国語大辞典』(全13巻 小学館 2006年刊) 
 ※電子版2016年2月18日閲覧。
・『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)
 ※「東恩納寛惇」「黄色い百合」ほか各項目参照。
・新垣美登子「古武士の情熱」(「東恩納寛淳全集 付報9」 第一書房 1981年刊)
 ※解説文に記した寛淳と美登子の交流について記されている。
・『沖縄文学全集』(全20巻 国書刊行会 1990年~2016年現在刊行中)
 ※第6巻「小説1」に新垣美登子「手袋」掲載あり。
・千原繁子『カルテの余白』(若夏社 1978年刊)
 ※東恩納寛惇と美登子のつながりについての記述がある。(「詳細解説文」参照。)
・HP『琉文21』に寛惇と美登子が仲良く写真に収まっている記事がある。
 「1978年9月 千原繁子『随想集 カルテの余白』」
           :http://ryubun21.net/?itemid=8048
・琉球新報記事(新垣美登子 逝去記事 1996年12月10日)
 → http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-86255.html

(調査ノート)
・新垣美登子 逝去記事(琉球新報 1996年12月10日)
「沖縄の女流作家、自立する職業女性のさきがけだった新垣美登子(あらかき・みとこ)さんが9日午後4時19分、老衰のため入院先の那覇市首里石嶺のオリブ山病院で死去した。96歳だった。 自宅は那覇市久茂地3ノ2ノ12。告別式は12日午後3時から4時、那覇市楚辺292、那覇バプテスト教会で。喪主は妹の大城藤子(おおしろふじこ)さん。 新垣さんは1901年、那覇市生まれ。県立第一高女卒、日本女子大国文科中退。放浪詩人といわれた池宮城積宝と結婚するが、3カ月で別居。帰郷して県庁に勤める。30年、「うるま美粧院」を開業。35年小説「花園地獄」を琉球新報に連載。 戦後、「みと美粧院」を開業し、54歳で文筆活動を再開するが、66年眼底出血で失明。79年、手術で奇跡の開眼、新聞紙上で話題となった。82年、琉球新報に自伝小説「哀愁の旅」を連載。84年には83歳記念誌「那覇女の軌跡」を刊行した。」
・『東恩納寛惇全集』第10巻の「日記抄」などを詳細に調査したらこの書を美登子にいつ贈ったか、また美登子の小説に対する寛惇の批評などが見つかるかもしれないが通覧したところ未見。
(鶴田 大)

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