八重山諸島村落絵図 3 (やえやましょとうそんらくえず)

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概要・解説文

『八重山諸島村落絵図3』(西表島 南風見村(はいみ・むら)ほか全30枚)解説

 

 八重山の正確な地図が作製されたのは、琉球王国が薩摩藩(鹿児島)と、江戸幕府を中心とする大和文化圏の政治的影響力を直接に受けるようになって以降のことです。
 江戸時代を通して、幕府の指示を受けて各藩が藩内全域にわたる測量を何度か行いました。琉球王国内でも数回にわたって全体的な測量が行われ、八重山の絵図(えず=絵画的な地図)が作製されたのは1646年(正保(しょうほう)三年)が最初です。
 
 そうした絵図は江戸幕府が各藩を統治するために行われたものですが、この『八重山諸島村落絵図』の制作目的は不明です。しかし旧蔵者・塙忠雄(はなわ・ただお)氏(=温故(おんこ)学会創設者。江戸時代の有名な文献学者・塙保己一(はなわ・ほきいち)のひ孫にあたる)が八重山島役所に勤務し製糖業などの事業振興に尽力していた明治23年(1890)頃に塙らにより作成されたと見られています。絵図には古くからの拝所(はいしょ=聖域)などと共に小学校や明治20年に導入されたサトウキビ工場(製糖小屋・せいとうごや)が描かれています。

 

 この絵図は、琉球王国時代以来、マラリア(感染症の一種)と闘いながら数多くの開拓村が誕生・消滅を繰り返した八重山諸島の大きな時代の変わり目を写し取った絵図という意味でもたいへん貴重な資料と言えます。
 八重山諸島は琉球王国時代、首里王府が財政難から米の増収を目指して離島民らの強制移住を行わせたことで知られます。その際に開拓された石垣島や西表島の村はこの絵図が作製されたとみられる明治20年代以降~大正期までにはほとんどがマラリアにより廃村になっています。また明治以降、琉球王国が崩壊すると職を失った士族らを中心に八重山の開拓事業が進められます。およそ1891年(明治24年)頃のことです。そしてそのほとんどの開拓地も、やはりマラリアのために多くの犠牲者を出して、そのほとんどが挫折しています。この絵図には王国時代の歴史の名残が色濃く残る一方で、近代の開拓が次々と始まっていく様子が活写されているのです。

 

 また、伝統的な村落のかたちが多く残る現在の八重山諸島各地の時間的連続性を見通せるという意味でも貴重な資料です。
 既に研究者らによって、この絵図から、1771年の大津波(=八重山諸島民の三分の一以上が犠牲者となったいわゆる「明和(めいわ)の大津波」)以降に作られた村が碁盤(ごばん)の目のような道路区画で作り直されている様子や、離島などの都市化の進んでいない集落は現在もほとんど同じ形態を保っていること、廃村となった村の詳細などが確認されつつあります。
 
 この「絵図3」にまとめられた30枚の1枚目「南風見村」は現在の西表島南東部に位置する集落です。琉球王国時代に首里王府の財政難対策や異国船への警戒などの理由から波照間島の島民を強制移住させ開拓した村です。水や資源に恵まれた土地でしたが1771年の大津波被害などで人口の減少傾向が続き大正9年(1920)に廃村。やがて昭和16年に新城島(あらぐすくじま)から県指導で入植・再興されますがマラリアで人口減。戦後、竹富島をはじめ沖縄本島、宮古島などからの移住者も加わり、集落を形成しています。

 

 現在も宮古・八重山は、それぞれ沖縄本島とは異なる独特の社会・文化を持っていますが、1400年代~1500年代に琉球王国の一部となっていく以前は、当然ながら、現在よりもはるかに自立的な文化圏でした。この絵図は、明治頃の八重山の風景と共に古い時代の八重山諸島の原風景を見いだす重要な手がかりを与えてくれています。

(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)※項目「八重山開拓」など。
『八重山古地図展』(石垣市 1989年刊)
 ※この絵図が初めて広く紹介された展覧会図録。全図が掲載されている。
『村が語る沖縄の歴史 「再発見・八重山の村」の記録』(国立歴史民俗博物館・編 1999年刊) ※「密林に隠された中世八重山の村」(小野正敏)などでこの絵図が貴重な資料として取り上げられている。
『日本地名大辞典 沖縄県』(角川書店 1986年刊)※項目「南風見村」
ほか

(鶴田大)

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