奈良原幸五郎宛書簡 (ならはらこうごろうあてしょかん)

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概要・解説文

※書簡類の文面全体については「翻刻資料」欄を御覧ください。またタイトルは「奈良原幸五郎宛書簡」となっていますが、内容的には奈良原繁関係書簡類(ならはら・しげる かんけい しょかんるい)と呼ぶべきものです。
以下、氏名については奈良原繁で統一しています。必要に応じて「奈良原繁〔※通称=幸五郎〕」としています。

本資料は奈良原繁〔1834~1918 ※通称は幸五郎〕が旧蔵していたとみられる書簡類から成り立っています。内容的には「琉球処分」に関わる書簡が中心となっていて、歴史的に重要な意義を持っています。琉球処分〔1872~1879年〕とは、琉球国が琉球藩を経て沖縄県として明治日本の一部に併合される過程のことを言います。奈良原繁は「琉球処分」に深く関わった薩摩藩出身の明治政府官僚です。本資料の文書の全てが、奈良原が直接やりとりした文書ではありません。しかし、差出人・宛先に奈良原が登場しない文書についても奈良原が深く関わっていたと考えられます。
書簡類9通のうち、奈良原宛のものは4通。奈良原が書いた「下書き」とみられる書簡が1通。その他の4通は、奈良原がそのやりとりに関わったとみられる明治政府内の役人同士の琉球に関わる内容の書簡や、琉球藩〔沖縄県〕と明治政府の間で交わされた文書〔※差出人・宛先不明を含む〕となっています。 書簡類の書かれた年代は明治四(1871)年~明治十七(1884)年にわたっています。

奈良原繁が沖縄の歴史の中で最も広く登場するのは、第8代の沖縄県知事〔1892~1908〕を務めた人物としてです。しかし奈良原は県知事を務める以前から明治政府下〔鹿児島県庁〕の役人として琉球国についての担当官を務めていました。そのため、このような重要な歴史的文書が奈良原の手許(てもと)に保管されていたのでしょう。歴史家・東恩納寛惇〔ひがしおんな・かんじゅん 1882~1963〕の旧蔵品として現在、県立図書館に所蔵されているこれら書簡類9点は、おそらく寛惇が親交のあった奈良原から譲渡されたものと考えられます。

琉球〔沖縄県〕側からの書簡の多くは、琉球藩設置以降も清朝中国との外交関係を存続させてほしいと要請しているもので、琉球処分の過程を生々しく語るものとなっています。明治政府側からの書簡類の多くは、琉球を明治日本の一部とするために様々な策を弄した様子がうかがえる内容となっています。これら全ての書簡類はどれも丁寧で礼義を尽くした文面ですが、当時の歴史の動きを知った上であらためて見ていると、文面の背後にある琉球側・明治政府側の複雑な思惑を感じずにはいられません。

東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)は尚王家に近い人物・歴史家であり、琉球最後の王・尚泰(しょう・たい)の一代記である『尚泰侯実録(しょうたいこう・じつろく)』を執筆しています。その際には主に尚家に伝わる文書類〔※『史料綱文』として沖縄県立図書館に所蔵されている。〕を主な執筆材料にしていて、これら『奈良原幸五郎関係書簡類』が引用された形跡は見当たりません。当時、既に寛惇がこれらの文書を入手したのかどうかも定かでありません。しかし入手していたとしても、明治政府批判が厳しく取り締まられていた当時としては、これらの文書を活用するすべは殆ど無かったと考えられます。特に琉球側から明治政府への請願の書簡類は、自治・独立権を存続させようとする琉球の人々の痛切な訴えとなっており、当時は公(おおやけ)に語られなかった歴史風景がみえてくるようです。
(鶴田大)

詳細解説文

 本資料は文書〔書簡〕類9点とそれらの一部を納めていた木箱3点からなります。以下、文書類9点それぞれについて概要を記します〔※木箱3点とそれらに付随のメモなどについては「調査ノート」を御覧ください〕。文書については年代順に並べ直し、仮に番号を付けています。

文書①『明治四年十二月付 奈良原幸五郎・伊地知壮之丞連名書簡〔下書き。宛先不明。 「御達シニ基キ 大山格之助」云々〕』 
※デジタル書庫の画像3/13、「翻刻資料」の第一通め。
・宛名がありませんが、末尾に「未 十二月 奈良原幸五郎 伊地知壮之丞」とあり、内容から、鹿児島県の役人だった奈良原と伊地知(いぢち)が明治四〔1871年=未年〕に作成した上司宛の書簡の下書きとわかります。下書きであるため、宛名が無く、また本文の所々に書き直しや加筆箇所がそのまま残っています。
・歴史の流れを『尚泰侯実録』などによって追ってみると、明治四(1871)年は琉球処分が開始される前年です。この年七月、既に明治政府は廃藩置県を実施しており、薩摩藩士だった奈良原・伊地知らは鹿児島県の役人となっています。琉球国は既に廃藩置県に伴い、明治政府下では鹿児島県の管轄とされています。翌明治五年正月に鹿児島県庁名義で県庁職員の伝事・奈良原繁〔※通称=幸五郎〕、同・伊地知貞馨〔さだか※通称=壮之丞(そうのじょう)〕らに対して、廃藩置県等の明治政府の施政方針を琉球国側へ伝えるべく琉球出張命令書が発行されます。大山格之助〔綱良〕は当時、鹿児島県参事〔明治五年七月三日文書による〕から鹿児島県令となった人物〔※参事も県令も後の県知事に当たる役職〕。
・内容は、奈良原らの琉球出張について鹿児島県参事・大山格之助名義で明治政府に対して相談する文書〔「願書」の文案〕が出来たことを県庁上司へ報告しているものです。この書簡〔下書き〕は清書されたのち、琉球出張についての明治政府宛の願書〔の文案〕に添付されて鹿児島県庁へ提出されたと考えられます。いわゆる琉球処分の準備文書の1つとして重要です。

文書② 『明治七年七月二十一日付 伊江王子・宜野湾親方・浦添親方・池城親方 連名書簡〔奈良原幸五郎宛「一筆致啓上候。 與那原親方在京之砌云々」〕』 
※デジタル書庫の画像8/13、「翻刻資料」の第三通め。
・書簡の内容は、明治政府側の琉球関係担当官僚である奈良原繁〔※通称=幸五郎〕に宛てて、琉球の王府代表らが、琉球国王は明治政府に対しては「藩王」であるが、独立国として、従来通り清朝中国との外交関係を保つことを確認しているもの。
・書簡には年記が無いが、池城親方(いけしろ・ウェーカタ)が三司官〔さんしかん=3名体制の宰相〕に就任したのが明治六年十月二十一日。また明治八年六月二十日には宜野湾親方が三司官を辞職している。両者が王府代表として署名しているため、明治七年七月二十一日と特定できる。
・前年三月に琉球側は外務卿〔当時〕の副島種臣(そえじま・たねおみ)との間に「国体政体永久に変わらず。清国交通もこれまで通り」との確約を取り交わした〔※『尚泰侯実録』明治八年条「去六年副島外務卿が琉球藩吏に対し藩内の政治は、是れを藩王に一任し、干渉する事なかるべきを言明」とあり。また、同様の記述は、例えば次の参考文献にあり→新城俊昭『琉球・沖縄史』 p.208 東洋企画 2014年刊〕。与那原親方(よなばる・ウェーカタ)は明治七年一月に外務省への出仕を明治政府から求められ上京しており、七月十日に琉球に帰国している。この間に、与那原親方は「従二位様〔じゅにいさま=副島種臣か?〕」に改めて会見して上述のような琉球国の自治権について再度確認したものとみられる。本書簡は与那原親方のそれらの報告を受ける形で書かれた書簡とみられる。
・もとより明治政府側には琉球国の独立を継続させる意志はなく、明治日本の一県として併合する意図が明確であったからこうした書簡による琉球国独立維持の確認について明治政府側は全く問題にしていなかったという状況だった。
※「奈良原幸五郎様 伊江王子 宜野湾親方 云々」の包み紙あり。

文書③-a『明治七年八月八日付 伊江王子・宜野湾親方・浦添親方・池城親方 連名書簡〔奈良原幸五郎宛「一筆致啓上候。弥御清福云々」〕』 
※デジタル書庫の画像5/13、「翻刻資料」の第八通め。
・琉球国の王府代表〔摂政・三司官〕から、奈良原繁〔※通称=幸五郎〕宛の書簡であり、琉球藩の貢納米(こうのうまい)の石高(こくだか)について便宜を図ってもらった確認と返礼について書かれている。
・書かれた年代は池城親方(いけしろ・ウェーカタ)・浦添親方・宜野湾親方が三司官〔さんしかん=3名体制の宰相〕を務めていた期間内に限られる。池城親方安規(あんき)の三司官就任〔明治六年十月二十一日(旧九月)〕と宜野湾親方の辞職〔明治八年六月〕の時期から、本書簡は明治七年と確定できる。
・宛名「奈良原幸五郎様 人々御中」 八月八日付 池城親方 浦添親方 宜野湾親方 伊江王子(それぞれ署名と花押)

文書③-b『明治七年八月八日付 伊江王子・宜野湾親方・浦添親方・池城親方 連名書簡〔奈良原幸五郎宛「一筆致啓上候。弥御清福云々」〕包み紙』〔=文書③aの包み紙〕 
※デジタル書庫の画像4/13
・文面は「奈良原幸五郎様 伊江王子 宜野湾親方 浦添親方 池城親方」

文書④ 『明治八年二月九日付 尚泰書簡〔奈良原幸五郎宛「一翰被啓達候云々」〕』 
※デジタル書庫の画像9/13、「翻刻資料」の第五通め。
・尚泰王から明治政府の奈良原繁〔※通称=幸五郎〕宛書簡。内容は、三司官〔さんしかん=3名体制の宰相〕と与那原親方(よなばる・ウェーカタ)が東京へ出かけた際に、明治政府側から、古来の中国との外交関係(冊封体制)を廃止するよう命じられたことに対し、再考を要請しているもの。詳しいことについては、再度、使者〔=池城親方、与那原親方、幸地親雲上(こうち・ペーチン)〕が東京へ行くのでそこで説明させてほしいと述べている。
・こうした内容から、文書の書かれた時期は、池城親方、与那原親方、幸地親雲上が東京へ尚泰の使者として赴いた、明治八年と特定できる。三名は明治八年二月五日に那覇を発って三月一八日東京着。三月中、内務省の高官らに会って、琉球国の清朝との外交関係の存続を訴える。同年六月十日に松田道之(まつだ・みちゆき)らと共に品川を船で発ち、同七月十日に那覇に帰着している〔『尚泰侯実録』明治八年条〕。
・「重大之事件」は台湾事件か?

文書⑤『明治八年三月付 池城親方・与那原親方・幸地親雲上 連名書簡 〔奈良原幸五郎宛 「口上 今般三月 云々」〕』 
※デジタル書庫の画像7/13、「翻刻資料」の第四通め。
・「奈良原幸五郎様」 「三月」 「幸地親雲上 與那原親方 池城親方」(差し出し)
・琉球王府から明治政府に対して、中国清朝との外交関係(冊封体制)の存続を請願した口上書〔こうじょうがき≒正式な署名・花押(かおう)・捺印などを添える文書よりやや簡略な形式の(外交)文書〕。奈良原繁〔※通称=幸五郎〕は明治政府官僚で琉球藩への対応を職掌としていた。
・文書④の記述にある通り、池城親方(いけしろ・ウェーカタ)・与〔與〕那原親方・幸地親雲上の三名は尚泰王の特使として、琉球国の独立自治権を再度訴えるため明治八年二月に琉球を発ち、三月に東京に到着して、内務省高官らに琉球国存続を訴えている。
・「管轄一件」とは台湾事件のことか。

文書⑥『明治八年十月付 「使者中 連名」書簡〔太政大臣・三条実美宛「先般 太政大臣より云々」〕』 
※デジタル書庫の画像10/13、「翻刻資料」の第六通め。
・明治八年(1875年)十月に琉球藩王の使者から明治政府の太政大臣・三条実美(さんじょう・さねとみ)へ宛てた書簡。内容は、先に明治政府官僚(内務大丞)の松田道之(まつだ・みちゆき)が来琉し「今後は中国清朝との外交関係(進貢・冊封)を廃止すること」と通達したことに対し、清朝との外交関係の継続を請願しているもの。琉球藩の歴史的立場や実情について松田道之にも詳しく説明したが、あらためて今回、東京に琉球藩王の使者として来ているので、直接説明し請願を行ないたいと述べている。
・捲(まく)り状態の長尺の書簡1通。

文書⑦『明治八年十一月十七日付 差出人・宛先不明書簡〔「申出ノ趣ハ云々」〕』 
※デジタル書庫の画像1/13=〔画像#7413〕、「翻刻資料」の第七通め。
・1875年11月17日付の、琉球処分過程の通達文書。明治政府高官(伊藤博文?) から琉球処分に当たっていた派遣役人(松田道之以外の人物。奈良原繁か?) への通達書簡か。内容は「先に明治政府からの『朝旨』を琉球王府へ伝えたところ異議があり、その後も異議申し立ての文書があった。9月9日に送った通達文書の通り琉球藩の体制を変更すべく作業を進めるべし」というもの。
・1875年11月の歴史事項を参照して調査を進めると詳細な文意が解明される。

文書⑧『明治八年十一月付 差出人・宛先不明書簡「先達而 松田道之殿 琉球江 云々」』
※デジタル書庫の画像6/13、「翻刻資料」の第二通め。
・「藩王」と文面にあるので1872~1879年の間であり、「亥(いのしし)」年なので明治八年(1875年)十一月の書簡とわかる。内容は琉球の中国との冊封体制維持について琉球(藩)側から明治政府側へ請願をおこなっているもの。

文書⑨『明治十七年九月十二日付 尚典徴兵御免願書兼許可書〔尚典から伊藤博文宛〕』
※デジタル書庫の画像2/13、「翻刻資料」の第九通め。
・尚典(しょう・てん)の徴兵免除願書。原稿用紙一枚。明治十七年八月二十七日付 宮内卿伊藤博文宛。同文書に明治政府から「願之通 明治十七年九月十二日」と朱書きし「宮内卿伊藤博文」印が捺印されている。即ち本文書は「尚典 徴兵免除依頼及び許可証書」となっている。
・尚典〔1864~1920〕は琉球国最後の王である尚泰(しょう・たい)の第一王子。
・1884年、華族である尚典(=尚泰王の子)の兵役について免除を宮内省華族局(伊藤博文)へ申し入れた文書。その文書に許可印が押されて返送されている。既に琉球処分を経て沖縄県になっている。奈良原繁〔※通称=幸五郎〕との関係は不明。
(鶴田大)

参考文献・調査ノート

(参考文献など)
・『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)
 ※「奈良原繁」「琉球処分」「松田道之(まつだ・みちゆき)」「伊地知貞馨(いぢち・さだか)」「尚泰(しょう・たい)」「尚典(しょう・てん)」「尚泰侯実録(しょうたいこうじつろく)」「東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)」「伊江朝直(いえ・ちょうちょく)」「宜湾朝保(ぎわん・ちょうほ)」「与那原良傑(よなばる・りょうけつ)」「幸地朝常(こうち・ちょうじょう)」「台湾事件」「副島種臣(そえじま・たねおみ)」ほか各項目参照。
・『尚泰侯実録』
 ※本資料は1924年に櫛引成太により発行されたもの。その後、1971年に原書房から復刻され、さらに1978年に『東恩納寛惇全集2』に収録された。「全集」は初刊本を底本にしており、新たに解題、書誌情報が付されている。また、『史料綱文』〔※沖縄県立図書館 デジタル書庫にて閲覧可能〕は東恩納寛惇が『尚泰侯実録』をまとめるに当たって元となる資料を年代順に収集したメモ書きであり、本書簡史的意義の理解の際に参考となる。『史料綱文』には本書簡類は掲載されていない。しかし史料綱文は『尚泰侯実録』執筆のために作成された資料集であり、明治政府批判に当たるような内容の文書は周到に省かれている。このため危うい内容を持つ本書簡類が当時、寛惇の手許にあったかは定かでない。
・『琉球処分 上・中』〔松田道之・編 宝玲叢刊 1874年〕
 ※「琉球処分」の処分官・松田道之が伊藤博文内務卿に命じられて編纂した文書。明治維新後から琉球処分に至る史料を集成したもので、明治政府側の立場からまとめられた一次資料として重要。
・『琉球・沖縄史の世界 〔日本の時代史18〕』(豊見山和行・編 吉川弘文館 2003年刊)
 ※第5章「王国の消滅と沖縄の近代」(赤嶺守・執筆)に尚泰の生きた時代(明治以降)がわかりやすくまとめられている。
・『尚泰王』(上中下・三冊 与並岳生・著 ※「新琉球王統史」第18~20巻として刊行。 新星出版 2006年刊)
 ※「琉球処分」の副題の通り、尚泰時代の歴史がわかりやすくまとめられている。各冊末尾に詳細な琉球・沖縄史の年表があり、事項の確認にも活用できる。
 
(調査ノート)
※文書に付属している木箱が3点あり、内2点は書簡を送った際に使用したものとみられる。また県立図書館によるとみられる古いメモも付属しており、貴重な資料と考えられるため、それらについても以下に概略を記述しておく。
木箱①「奈良原幸五郎様 伊江王子 宜野湾親方 浦添親方 池城親方」〔←箱書き〕
※デジタル書庫の画像11/13
・杉材の箱。表書きの筆跡が書簡の筆跡と一致しているため、書簡を送った際に使用した箱とみられる。
・保管状況や箱書きからみて、元々は文書②を収納していたものとみられる。
〔※但し、文書③-a、③-bについても内容が箱の表書きと一致しており、また筆跡も同一と認められ木箱①が元箱だった可能性もある。今後、詳細の確認が求められる。〕
・箱には次の比較的新しいメモ書きが付属している。箱と一緒に保管した文書についてのメモとみられる。
「2850-2奈良原幸五郎様 琉球藩主 一通」 {*→文書④のこととみられる。}
「2850-1奈良原幸五郎様  伊江王子 宜野湾親方 浦添親方 池城親方 4通
1 亥11月 署名ナシ
2 七月廿一日 
3 未十二月 奈良原幸五郎より伊地知荘之丞  
4 二月(三月?) 幸地親雲上、与那原親方、池城親方」
{*→それぞれ1=文書⑧、2=文書②、3=文書①、4=文書⑤に該当とみられる。}

○木箱2 「奈良原幸五郎様 琉球藩王」〔※箱書き〕  
※デジタル書庫の画像12/13
・杉材。表書きの筆跡が書簡の筆跡と一致しているため、書簡を送った際に使用した箱とみられる。
・保管状況や箱書きからみて、文書④を元々は収納していたものとみられる。
・箱には比較的新しい、次のメモが付属している。県立図書館などにより新たに作成されたものか。
「2850-3 ・古文書 2通 
 ・冊封・進貢取止めに対する嘆願書 1               
 ・台湾生藩による宮古島人殺害事件に対する口上書 1 
 ・徴兵御免願
 {※上記メモはそれぞれ、文書④、文書⑤、文書⑨に該当しているとみられるが、文書④と文書⑤についてはそれぞれ、木箱②、①に収納されていたともみられ、はっきりとしない。} 

○木箱③ 〔箱書き無し〕
※デジタル書庫の画像13/13
・唐木〔紫檀または黒檀〕製。
・箱書きが無く、箱の蓋も失われている。書簡類と寸法が合わず、紫檀または黒檀の箱であり、後になって書簡〔文書⑥か?〕の保管のために〔おそらく東恩納寛惇が〕収納用の箱として新たに用意したものとみられる。

〔参考資料:首里王府の役職の変遷メモ〕※『尚泰侯実録』本文及び、同書の巻末年表からの抜き書き・メモ。
○明治三年 「十一月二十七日 三司官 馬朝棟 與那原親方 良恭 卒す。」
○明治四年「十二月 日 毛允良 三司官に任ず。」
○同    「 月 日 向麟趾 三司官に任ず」
○明治五年「六月二十六日 摂政 與那城王子、病気辞職、伊江王子、 仮摂政を命ぜらる。」 
○同年   「七月二十八日 三司官 亀川親方の辞表を聴許す」
○同年 「八月二十五日 伊江王子を摂政に、浦添親方を三司官に任ず」
○明治五年正月に鹿児島県庁名義で県庁職員の伝事・奈良原幸五郎〔繁〕、同・伊地知壮之丞〔貞馨〕らに云々
○明治六年「十月十二日〔旧八月二十一日〕、三司官・川平親方卒す。」。~十月二十一日、池城親方が三司官となり、三司官は宜野湾親方、浦添親方、池城親方となる。伊江王子摂政は留任。
○明治八年六月二十日、「三司官宜湾親方疾の故を以て職を辞す。衆議 富川親方 毛鳳来 盛奎を其の後任に擬し裁可を得たり。」〔←九月三日〕「於是 三司官は浦添親方、池城親方 毛有斐、冨方親方 職に在り。摂政は伊江王子故の如し。」
○「宜湾親方は、文久二年池城親方 毛増光 に代り、職に就きてより是に至るまで在職十三年・・・」
○明治九年「五月二十九日 摂政伊江王子辞表を内務省に提出す」
○同年「旧三司官 池城親方を仮三司官に任ず、当三司官ノ父にして齢七旬を越えたり、蓋、池城 富川 両三司官上京、浦添三司官一人なるを以て起用して事を見しむるなり。」
○明治十年「四月三十日 三司官池城親方卒去す。」
○同年「七月六日、仲嶺筑登之親雲上を以て池城親方の光仁を伺わしむ。」
○同年「七月十九日 與那原親方ニ三司官仰付らる」
(鶴田大)
しばらくお待ちください