東恩納寛惇の書 (ひがしおんなかんじゅんのしょ)

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概要・解説文

 この書は歴史家・東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん 1882~1963)の筆跡です。寛惇は伊波普猷(いは・ふゆう)などと並んで沖縄学の創始者の一人とみられている人物です。
 書かれているのは広く知られている琉歌で民謡「源河節(ジンカブシ)(※「平敷節(フイシチブシ)」とも)にもなっているもので、作者不明の古歌です。この「源河節」の舞台である源河走川に歌碑を建てたいという地元からの依頼を受け、寛惇が筆を執ったということが寛惇の当時の日記からわかります。歌の内容は「源河走川(げんか はりかわ)や 潮か湯か水か 源河めやらへ(べ)たか(が) おすてと(でど)ころ」というものです。意味は「源河走川は潮水であろうか、あるいはお湯なのか水なのか、源河の美しい娘たちが沐浴(もくよく)しているところだ」というようなもので、源河川や源河集落の娘たちの風景を讃えている内容です。寛惇は依頼を受けた年の秋にこの書を執筆し、また実際に東京から沖縄へ帰省して現地を訪れています。実際に歌碑に採用された書はこの書とは異なるものですが、歌碑は現在も名護市の源河地区に建っています。
 琉歌というのは沖縄独特の伝統的な定型詩(ていけいし)です。定型詩というのは、文字数の定まっている詩のことで、俳句や短歌などと同様です。琉歌が独特なのは、八・八・八・六音の合計三十音で構成されていることです。たいへん古くからあり、いつ頃からあるのかはっきりしません。沖縄の歌謡集として有名な『おもろさうし』(1531~1623年成立)にも、やはり八・八・八・六音の歌謡があります。また、本来の沖縄の発音で読むと「ジンカ ハイカワヤ  ウシュカ ユカ ミズィカ  ジンカ ミヤラビタガ ウスィディ ドゥクル」となります。もちろん微妙なイントネーションがあるので、活字化は不可能です。
 語句についてみてゆくと、源河川や源河集落は沖縄本島北部の名護市に現在もあります。走川は流れの速い川の意味。「めやらべた」は美童達(みやらびたち)という意味。「おすでどころ」は水浴びの場所という意味です。 

 琉球王国時代、漢詩や和歌はしばしばこのような観賞用の書として書かれましたが、琉歌が書かれるのは非常に珍しく現存例はほとんどありません。これは紙の保存の適さない沖縄の亜熱帯気候のせいもあり、また沖縄地上戦の戦禍のせいもありますが、同時に琉歌が「歌われる」歌であり、「書かれ」「読まれる」歌ではないという大きい理由があります。さらに発音が漢字仮名交じり文では精確に書き表せないという理由もあります。そのようなわけで、このような琉歌を書いた掛け軸は非常に貴重です。
 寛惇の書の巧拙(こうせつ)についてみると、あまり上手とは言えません。歴史学者や文学者の多くは古い詩歌(しいか)や書の批評や鑑識について専門知識を持っていますが、一般にそれら研究者の書は拙(つたな)いことが多いのです。寛惇も相当の批評・鑑識眼を持っているのにもかかわらず、やはり素朴な書と言えます。おそらく日常において、速く精確に書き記すことに慣れて、流麗に書く訓練が不十分だという理由が主でしょう。とはいえ、現在のように毛筆をほとんど持つことのない歴史学者と異なり、さすがに毛筆に慣れた味わい深い書です。堅実な学風で知られた寛惇の人柄そのものを表現しているようで興味は尽きません。
(鶴田 大)

参考文献・調査ノート

(参考文献など)
・『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年刊)
 ※「東恩納寛惇」「琉歌」ほか各項目参照。
・『標音評釈 琉歌全集』(第3版 島袋盛敏 翁長俊郎 著  武蔵野書院 1977年刊) 
・『東恩納寛惇全集』(10巻 第一書房 1982年刊 ※書簡などを集成予定の第11巻は未刊。)
・名護市ホームページ(歌碑の紹介頁)→ http://www.city.nago.okinawa.jp/1/156.html
ほか

(調査ノート)
・書写内容は琉歌の他に落款(らっかん)部分に「昭和三十三年 晩秋 寛」とあります。昭和33(1958)年は寛惇76歳になる頃で、晩年の書です。寛惇の日記(『東恩納寛惇全集』第10巻)をみると、昭和33年2月18日に「羽地村長上地清嗣と云ふ人より来信。源河はい川に歌碑を建てたきにより染筆の依頼。」とあり、同年8月28日に「歌碑揮毫終る。」とあります。「終る。」という表現から、寛惇が何度も執筆を繰り返した様子がうかがわれます。但し、この書には「晩秋」とあります。寛惇が日記を旧暦で書いていたとはみえませんが、8月28日は旧暦で言うと秋ですが晩秋ではなく中秋ですから、いずれにせよ、この日記のときの書ではなく、その後、あらためて揮毫したのがこの書とみられます。歌碑に採用されている書がこの日記のときの書かもしれません。この年、寛惇はその他の用事もあり11月5日~12月16日にかけて沖縄帰省を果たします。その際、地元でも数多くの講演や書の揮毫を依頼されている様子が日記に記されていますから、この書は一般的に考えて晩秋である11月に沖縄で誰かに依頼を受けて揮毫した書かもしれません。
・歌碑が実際に源河区に建立されたのは寛惇が揮毫した1958年からかなりの時間を経て、寛惇没後の1993年のことでした。
・落款(らっかん≒署名)部分には「寛」とのみあります。印章が押されていないのは、和歌・短歌の書式に合わせたものです。漢詩の場合には右上と、署名の下部分に印章を押すのが通常です。
(鶴田 大)
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