[浦添朝憙和歌]不二山 (うらそえちょうきわかふじさん)

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概要・解説文

 琉球王国は複雑で豊かな文学の歴史をもっています。この資料はその一端を味わう好資料です。この歌を作ったのは1800年代前半に王国の国相(こくしょう≒国王の補佐役)を務めた浦添朝憙(ちょうき 1805~1854)です。短冊という、詩歌を書くための紙に和歌(わか)を書いています。和歌は当時の「日本(≒大和文化圏 やまとぶんかけん)の公的な文学です。五・七・五・七・七音で作られる定形詩(ていけいし)として、近代以降(明治時代~)の短歌に引き継がれる、千年以上の長い伝統を持っています。朝憙の作った和歌はそれほど多く知られておらず、この短冊の和歌もこれまで知られなかったものです。その意味でもこの資料は貴重です。歌の内容は「富士山は、昔から言われるように、本当に山の王者だとみえる。雲の上に頂上をみせているその姿の気高いことよ。・・・」というような意味です。(「不二山(ふじさん=富士山)  日の本の山の君とも見ゆる哉(かな) 雲のうへ(上)なるふし(富士)の高ね(嶺)は  朝憙」)和歌はその特色として、実際には体験していない架空のイメージが歌われることが多くあります。しかし朝憙は実際に富士山を見た感慨を込めてこの和歌を歌ったようです。1842~1843年に琉球王国の外交使節団の代表として江戸へ行っていて、その際に富士山を見ているからです。

 朝憙を含め、琉球王国の政治家・文人(ぶんじん)たちは豊かな文学的教養を持っていました。今では考えられないことですが、当時、文学は単なる遊びや趣味ではなく国内外の人々との重要なコミュニケーションの方法だったのです。政治家も文学を通して自分自身の考えや人間性を表現していたのです。また、最初に記したように、特に琉球王国の政治家・文人たちは複雑で豊かな文学の教養を持っていました。中国やアジア諸外国との親交のためには漢詩文を味わい、作る必要がありました。また当時の「日本」との親交のために和歌をたしなんでいました。さらに最も素直に自分を表現できる方法としては当時の琉球の人々の母語(≒日常語)による琉歌(りゅうか)がありました。琉歌は八・八・八・六音で作られる定形詩で琉球独特のものです。このことは、おおまかに言って、中国の政治家・文人らが漢詩のみを、「日本」の政治家・文人らが漢詩と和歌をたしなんでいたことと考え合わせると興味深いことです。つまり、政治的・社会的に小さい、マイナーな文化圏ほど複雑で多様な文学性を持っていたということが一般的にみえてくるからです。このことは、国々の間の文化性の高低(たかひく)について、軍事力や政治力のように、いちがいに比較することが無意味なことを教えてくれるようです。

 県立図書館には朝憙自筆の漢詩の掛け軸があります。そこでは朝憙の唐名(からな≒中国風の名前。アジア諸国との外交の際などに用いた)である「尚元魯(しょう・げんろ)」という署名があります。琉歌は歌ったり踊ったりするために作られるという性格から、自筆のものは残っていませんが、後代にまとめられた『古今琉歌集(こきん りゅうかしゅう』などには多くの琉歌が伝えられています。

 この和歌短冊では和歌の内容とともに、朝憙の性格をうかかがせる思い切りのよい書風や、短冊の金箔(きんぱく)や金泥(きんでい)による霞(かすみ)模様の見事な料紙装飾(りょうしそうしょく)にも味わい深いものがあります。

(鶴田 大)

参考文献・調査ノート

(参考文献)
『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社 1983年) 「浦添朝憙」「和歌」ほか各項目参照。
『近世沖縄の肖像 下』(沖縄タイムス社 1982年) pp.130-146「浦添朝憙」
『沖縄県文化財調査報告書 第四十四集 歴史資料調査Ⅳ 扁額・聯等遺品調査報告書』(沖縄県教育委員会 1983年)
『近世沖縄和歌集』(池宮正治ほか編 ひるぎ社 1990年)
『未公開資料による 琉球王朝の書画』(古美術 観宝堂 1992年)
『書と風土 近世沖縄の書道文化』(渡久地龍雲 龍雅書道会 2000年)
『書の総合事典』(井垣清明ほか編著 柏書房 2010年)        ほか

(調査ノート)
・朝憙が務めた国相という首里王府の官職は、国王の補佐役であり最高職であるが、組織的には下位にある三司官(さんしかん)と呼ばれる三人の宰相(≒総理大臣)が実務を行っていたので、実際の政治的権限についてはあいまいで、朝憙についても国相としての具体的な仕事の実績がそれほど明確ではない。
・和歌は大和文化圏で奈良時代頃に発生し、906年成立の『古今和歌集』によって大和
文化圏の公式文学となった。現在も皇室を中心に行われている。明治以降の近代短歌は同じ五・七・五・七・七音の定型詩という点を和歌から受け継いでいるが、主に架空のイメージよりも、実感を伴う目の前の出来事を歌にするという点で大きく異なる。伝統的な和歌を否定するところから近代短歌運動が出発していて、現在、一般的には近代短歌が広く作られている。
・富士山を「山の君」と呼ぶのは江戸時代に入ってからよくみられる定型句で、朝憙もさまざまな和歌を学んで自分の歌に取り入れたと考えられる。
・琉球王国時代を通して、和歌より漢詩のほうがよく作られたようで、漢詩集も1725年の『中山(ちゅうざん)詩文集』(※板本。県立図書館も所蔵)を始め多くの漢詩集が編集されているが、和歌集は琉球王国末期、1870年の『沖縄集』が最初で、わずかしか残されていない。言語的には近い「やまとことば」による文学(和歌)のほうが、漢詩文より親しまれなかったのは不思議な感じもする。しかし、琉球王国と中国の外交的親密さや、東アジア文化圏において漢文が最も権威ある言語であったことなどを考え合わせると自然なこととも考えられる。土佐・大島浦に漂着した琉球の人々の話を聞き書きした『大島筆記』(※1762年成立。写本の一つを県立図書館が所蔵)にも、琉球の文人(潮平親雲上 しおひら ぺーちん)が「漢詩よりも和歌のほうが難しい」という話をしていることが記されている。
・朝憙の和歌は『沖縄集』(※版本 県立図書館も所蔵)に一首が掲載されている他、沖縄県立博物館に自筆の和歌短冊(一点)、和歌掛幅(一点)などが知られている(※その他に個人蔵も数点知られている)。漢詩については1843年に琉球使節の正使として江戸を訪れた際に往復の情景を詠んだ漢詩集『東游艸(とうゆうそう)』(※版本 上・中・下全三巻。県立図書館も所蔵)などが広く知られている。『東游艸』は同行した魏学賢(ぎがくけん)、鄭元偉(てい・げんい)の三名の合同詩集で1844年に刊行されている。『東游艸』下巻に尚元魯(浦添朝憙)の漢詩文が収められているが、さまざまな名所旧跡の中に富士山を詠んだ詩も収録されている。琉歌は『琉球大歌集』『古今琉歌集』などに16首が知られている(※参考文献に挙げた『琉歌全集』に再録されている)。
・朝憙の和歌の書についてみると、掛幅のやや大きめの文字は、自然な連綿やかすれの見られる柔らかい書風だが、一方、短冊の小さな文字のほうは墨の濃い力強いシャープな書風であり、むしろ漢詩(漢字)を書く際のものに近い。文字の大きさによってこれほど書風が異なるのはめずらしいとみられる。また、本資料の短冊の文字を詳しくみると、ややふるえている箇所が散見される。晩年の書であることなどが考えられる。(※「不二山」の和歌を書いているからといって、富士山を実際にみた時の書とは限らない。人から頼まれて後年になってから短冊に書くということも少なくない。)
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